5月12日は伊豆法難です

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1261年5月12日。

日蓮聖人は幕府に捕らえられ、

伊豆に流罪となります。

日蓮宗ではこの事件を「伊豆法難」と呼び、

5月12日を聖日としています。
 
 
日蓮聖人がなぜ流罪にされたのか、

その理由は正確には不明ですが、

幕府に対して『立正安国論』という意見書を

提出したことに関係すると考えられています。

また、他宗批判をされていたので、

有力寺院から幕府に陳情があったのかもしれません。
 
 
なお、日蓮聖人はこの10年後には佐渡にも流されます。

佐渡法難は、打ち首の危機をなぜか切り抜け、

コメディのような紆余曲折の後、

佐渡への島流しになるという

ドラマ的な急展開があって印象が強いため、

対して伊豆流罪は比較的影が薄いように見えます。

しかし聖日になるくらいなので、

もちろん重大事件でした。
 
 
この伊豆法難には、

日朗上人(にちろう しょうにん)という弟子が大きく関わります。


日朗上人は日蓮聖人の高弟のひとりで、

師への敬意は相当なものでした。
 

伊豆流罪の際、

自分も師匠と行くと主張して

舟から手を離さなかったので、

幕府の役人に櫂で腕を砕かれ、

生涯右手が不自由だったという説があります。

(ただし残された書き物はとても綺麗な字なので、

本当かどうかはわかりません)
 
 
これは日朗上人の肖像画(南健吾さま作)ですが、

伝承に基づき、右手をやや変な形に描いていただきました。
 
 
日朗上人は結局伊豆に同行できなかったのですが、

師を涙ながらに見送り、

宝塔偈というお経を唱えました。

舟に乗っておられる日蓮聖人からは、

そのお経が揺れているように聞こえたので、

今でも宝塔偈は独特な節をつけて読むものとされています。
 
 
 
日蓮聖人の話に戻ります。

伊豆におられるとき、領主の伊東氏が病に臥せました。

聖人は祈願により領主の病を治し、

御礼にお釈迦さまの立像をもらったとされています。


この立像は聖人の御入滅の際、

形見として先ほどご紹介した日朗上人に譲られたと伝わります。

ただし、後に日蓮聖人の御廟所に返されたとも言われますが、

この仏像の行方は詳しくはわかっておりません。

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