心は思うように動かない

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人と食事をすることが苦手でした。
 
こういう人は結構多いようです。
 
理由は人それぞれのようですが。
 
 
時間がとられるのが嫌だ。
 
気を遣うのはしんどいから。
 
人の食事のマナーが気になって仕方ないから。
 
 
等々色々なのですが、私はいずれでもありません。
 
人前で、料理をひっくり返してしまうことや、
 
飲み物をこぼしてしまうことになるのではないかという恐怖がよぎるのです。
 
 
ソースを取ろうとして目の前の方の服に汚してしまうことや、
 
ウェイターさんが運んできたせっかくの料理を受け取り損ねてしまうことなど、
 
経験上、ほぼあり得ないと言えるのですが、
 
会食に行く道中で必ずその想像が頭をよぎり、毎回怯えています。
 
 
多分私だけではないと思いますが、
 
自分の頭の中で描く動きと、実際の動作に相当な認知のズレがあるらしいです。
 
要するに、体が思うように動かないのです。
 
 
建具に肩をぶつけ、
 
注意したのに蛇口やシンクに食器を強打し、
 
よけたはずの足元の荷物を蹴り飛ばしています。
 
これらを毎日やらかします。
 
 
書いていて悲しくなります。
 
なぜ自分の体なのに、思い通りにならないのか。
 
長い間慣れ親しんだかけがえのない相棒※1 ではないですか。
 
もう少し意向を汲んで、融通を利かせてくれてもいいのでは?
 
 
きっと人は、あらゆるところでぶつかる私を見て、
 
落ち着きのない人だ、動きが雑だと思っているはずです
 
誤解なんです。
 
 
ですが、言い訳のできぬ動きをしていることは事実です。
 
だから人と食事に行くと、
 
いつこの体が予想外の動きをして粗相をしでかすかが恐ろしく
 
見張りに神経を尖らせていて疲れてしまうのです。
 
 
人の目は怖いから、この不器用な動きを直したいとは思っています。
 
しかし少なくとも今のところは直っていません。
 
 
 
ところで、これは体に限った話ではないように思えます。
 
心もまたしかりです。
 
私は見習いチャプレン※3 をしていますが、ある方のところに行ったとき、
 
こんな出来事がありました。
 
 
ある高齢の方が、私が挨拶をした直後に「死にそう」と言いました。
 
もしかしたら「死にたい」だったかもしれません。
 
どう返したものかと迷いました。
 
すると向こうから、「おまえのせいや」とゾッとするようなひと言が出ました。
 
瞬く間に「かえれ!」と罵倒され、部屋から追い出されてしまいました。
 
 
その数週間後、再びその方を訪ねました。
 
すると一度は「かえれ」と言われたものの、粘って話を続けた結果、
 
「あんたに会えてよかった」と涙ながらに語られたことがあります。
 
 
この方の気持ちの振れ幅には驚きましたが、
 
人の心の動きは、本来相当にダイナミックなものなのかもしれません。
 
そしてその気づきよりも大事なのは、
 
すべての人がその荒波を抑制できるわけではないという事実だと思うのです。
 
感情の上下は、おとなしく見える人でも相当なもののはずです。
 
私たちの内面には佛から地獄までのすべてがありますから。 ※4
 
 
 
運動音痴の私の体は狙い通りに動きません。
 
とは言えなんだかんだで、周囲はそのことを察してくれていると思っています。
 
最悪、学生時代の体育の通知表の写しを携帯すれば理解も深まるでしょう。
 
 
しかし、自分の思うとおりに動かない心を持った人――
 
思考音痴? 情緒音痴?
 
の方はどうでしょうか。
 
体の失態はせいぜい本人が痛いだけなので、
 
「いやー、失敗した」で笑えることだってあります。
 
ですが心の場合、火の不始末に近いものがあります。
 
 
 
自分の体が制御できなくて困っている人は、私を含め多数いるでしょう。
 
ですが心をうまく扱えない人は、その数倍はいてもおかしくありません。
 
おそらく、感情の上手な操縦主になる方法はあります。
 
ただしそこに必要なのは、
 
科学的理論や常識とは少し離れたところにある修行だと私は思っています。
 
(あくまで今の、です。将来はどうなるかわかりません)
 
だからみなさん、がんばりましょうね! と言っていいのか。
 
とても迷います。
 
 
ちなみに修行の功徳かどうかは不明ですが、
 
私は人と食事をすることへの苦手意識はだいぶ小さくなりました。
 
 
 
 
※1
現代日本でこの説明は少々問題があるかもしれませんが、
 
お釈迦様のたとえ話の中に、4人の妻をもった長者の話※2 があります。
 
この長者は死期を悟り、一緒に死んでくれる妻を募ります。
 
自分が一番愛していた妻にはにべもなく断られ、
 
二番目の妻にも、三番目の妻にも拒否されてしまいます。
 
ところが、長者が一番雑に扱っていた四番目の妻だけが、
 
長者とともに逝ってくれることになり、彼は深く反省したという話です。
 
 
一番目の妻は自分の肉体、
 
二番目の妻は財産、
 
三番目の妻は家族や友人、
 
四番目の妻は自分のこの世での行い
 
を例えたもので、
 
私たちの死後も付いてくるのは自分の行いの結果のみである、
 
という話につながっていきます。
 
 
この話を踏まえると、
 
私の体が私の言うことを聞かないのは、至極もっともですね。
 
この世を去る前に、見捨てる伏線を張ってくれていて実に親切です。
 
 
※2
昔、この話をあるお坊さまが法話に使われたそうです。
 
すると聴衆のお爺さんから、
 
「ええ勉強になりましたわ~、奥さんは4番目の方に限るって話ですな」
 
という反応が返ってきたらしく、
 
人に伝えることの難しさに頭を抱えたと聞きました。
 
私はそのお爺さんの婚歴が気になります。
 
 
 
※3
 
チャプレンとは、病院や施設などで精神的なケアを行う宗教者のことです。
 
相手になる病人の方の多くは、自分の苦しみに手いっぱいです。
 
そのために、ひと言で言えば非常にややこしく、
 
対応が難しい人であることが多いです。
 
医療関係者や介護士は多忙で、対応に充分な時間がありません。
 
周囲の人からも孤立している傾向にあります。
 
だからこそ私たちの存在意義があります。
 
 
※4
 
いわゆる十界互具(じっかい ごぐ)。
 
私たちの心には佛や菩薩のような尊い心があるとともに、
 
佛や菩薩にもまた私たちのような心があります。
 
私たちが佛のように生きようと思えばそのチャンスがあるのと同時に、
 
例えそれができなくとも佛さまは私たちと共にあります。
 
 

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