お経を読んだのち、回向(えこう)をします。
回向とは、お経やお題目をお唱えすることで得られる功徳(くどく≒成果)を、
配分することです。
回向の内容は、お経をあげる式によって異なります。
朝のお勤め、お葬式、月参り、病気平癒の祈願……
これらすべて、回向の文言が違います。
理想を言えば、
すべての法要は一期一会だと知り、
それぞれオーダーメイドの回向文を作ることなのかもしれません。
しかし、さすがにその都度別の文章を作ることは大変です。
ですので式の性格を大きくいくつかに分類して、
月参りであればA家でもB家でも大体同じ内容にし、
特別な場合(祥月命日など)のみ、
変更するのが妥当に思えます。
ただ、想定外の事態も少なくありません。
例えば、
月参りのとき、その家のペットが出てこない。
実は長く患っていて、つい先週亡くなった。
こういうことは普通予想はしないので、
愛犬のためにお経をあげようにも、
即席のしどろもどろな供養しかできなくなります。
その気持ちが嬉しいと言われても、
一抹の悔しさが残ります。
上の話はあくまで一例で、
似たようなことは案外高い確率で起こります。
また、多くの回向文は、
その方が相当な篤信かつ善人であることを前提にしているので、
関係者全員に違和感を与えてしまうことがあります。
自分は無宗教だと常々言っていた方を指して、
「故人は法華経のために命を捧げし者なり」
と言うのは哲学的すぎるでしょう。
大体同じ内容を読むのだとしても、
適切な表現を目指したいと思ってしまうのです。
かといって、いかなるパターンにも対応できるようにしようと思えば、
いつも分厚い回向文集を持ち歩かなければならず、
明らかに不便で、見苦しいものです。
どうしたらいいのか考え続けて、
というか思いついてはいたものの、
そのひらめきは実現が大変で、
別の方法を模索していたのですが、
やっぱりそれに勝るアイディアは無いと悟り、
実践したのが写真です。
自分が必要とするであろう回向文だけを折本に自筆し、
(その文量なんと35丁半。折本は裏表を1丁と数えるのが正式なので、
我々のなじみのある数え方で言うと71頁となります)
それを常に持ち歩く。
シンプルかつ力業です。
軽くて便利で、クシャクシャにもなりません。
大勝利です。何が敵だったのかはわかりませんが。
ただいつも、こういう手間のかかる地味な手段ばかり選んでいる気がします。
もう少しスマートな生き方を悟りたいです。