11月30日(土)午後2時より植木雅俊先生を講師にお招きし、「現代語訳で読む『法華経』」第7講が開催された。6講で終了の予定だったが、先生があまりにも熱心にお話されるので時間が足りなくなり、1回追加しての最終回。今回の参加者は16名。いろいろ都合もおありだとは思うが、せっかく志を立てて聴講を始めたのに、途中で挫折してしまった人が多く、誠に残念である。7回すべて聴講された10名の方には、拍手を送りたい。
今回の講義は如来神力品から最後まで。神力品では、「塔を建てて供養すべし」の塔は、仏舎利を安置したストゥーパではなく、経典を安置したチャイティヤであること、また、どこであれ法華経を実践する人がいる所が聖地でとして、特定の場所を聖地化することを否定、日蓮聖人は「法妙なるが故に人尊し、人尊きが故に所尊し」と述べられた。
先生は嘱累品第22までが本来の法華経であり、以降の6章は後世に追加されたものであり、阿弥陀仏信仰や薬王菩薩信仰、観世音菩薩信仰が混入していると指摘された。参加者の中には相当にショックを受けられた人もいたようだが、本来の法華経は観世音菩薩に現世利益をお願いするような受け身の信仰ではない。
先生の講義を受けて、私は次のように法華経を理解した。全てのいのちは平等であり、だれでもがブッダになれる。そのためには、「今」「ここ」、そして「私」を直視して、真の自己に目覚め、他を利するための菩薩道を実践すべし。日蓮聖人は「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬いしは、いかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」とおっしゃられた。覚りを開かれた釈尊ですら、菩薩道を実践し続けておられる。実践を離れた法華経信仰はあり得ない。菩薩道に邁進すべし!!!!
ただ、ひとつだけ疑問が残った。法華経には釈尊十大弟子の中でウパーリ(優波離)だけが登場していない。ウパーリは理髪師の出身で、インドのカーストではシュードラになる。他の十大弟子はバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの出身。シュードラ出身であるが故にウパーリだけが省かれたとしたら、法華経の平等思想は崩れ去ってしまうのだが、植木先生からの明確なご回答はなかった。
先生の法華経講義はこれが最終回となったが、来年度からは1年に1度先生においでいただき、講演をお願いする予定でいる。