【くらしかるブッディズム】は、
昔から使われてきた仏教の言葉を
いま再び見つめ直すコーナーです。
第2回目は
「会釈(えしゃく)」
です。
仏教のお経を全部集めると、
どのくらいの量になるでしょう。
昔は、「一切経蔵(いっさいきょうぞう)」という
立派なお堂を建てて、
その中に大切にしまっていました。
かなりの量だったことがわかります。
それだけたくさんのお経があると、
あちらとこちらでつじつまの合わない教えが
出てくるそうです。
ですが、お経というのはすべて
お釈迦さまが説いたありがたい教えです。
きっとそこにはわけがあるはずです。
そこで、教えの原点に立ち返って
双方の教えを矛盾なく説明する必要が
でてきました。
これを、「会釈する」と言ったのです。
「和会通釈(わえつうしゃく)」という言葉の
略であると言われています。
「和会」というのはあまり聞きなれない言葉ですが、
「和」には「仲良くする、まぜる」という意味があり、
「会」には「あつめる、あわせる」という意味があります。
ですから「和会」とは、
二つの異なるものをあつめて、
仲良しにするということです。
したがって「和会通釈」とは、
二つの異なる説をあつめて、
根本にある共通の教えを見出し
矛盾のないように解釈する、
という意味になります。
これがだんだん意味が転じて、
「意見の調和をはかる」とか、
「相手にうまく対応する」という意味で
使われるようになりました。
ここからさらに意味が転じて、
今私達が使っているような
「軽い挨拶」を意味する言葉になったそうです。
そういわれてみれば…
境内の掃除をしていると、
通りすがりの見知らぬ人と
目が合うことがあります。
そういうときはやはり
ペコッと軽く頭を下げて会釈します。
「偶然目が合っただけかな?
通りますよというご挨拶かな?
それとも何か用事があるのかな?」
色々な可能性を考えて、
軽く頭を下げるわけです。
実際なぜ目が合ったのかは
互いに会釈した後の行動で
おのずと理解できます。
軽く頭を下げる動作だけでなく、
自然と相手の意図に思いを巡らしている。
「会釈」ひとつにこんなにたくさんの
心の動きがあったとは…
ほんの小さな体の動きから始まる
心と心の交流を、
新鮮な気持ちで楽しんでいきたいですね。
それではまた(^^)/
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前の話→第1回「娑婆」