福島の今を知る

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平成26年6月19日、久留里から早朝5時46発東京駅行高速バスに乗り、東京へ・・・・。 
いよいよ福島に行きます。なるたけ余分な知識を持たずに行こうと思いました。
 
東京駅新幹線乗り場に一緒に行く仲間がいます。福島駅西口で他の仲間と合流いたしました。
 
駅に降りてみたら、なんとも爽やかで気持ちが良い日でした。
 
今回の研修会は、超宗派「僧侶の会」から福島の「今」を知るために福島県波江町のお寺の住職の手引きにより、実現いたしました。 
 
浄土真宗のご僧侶で160年の歴史があるお寺のご住職です。今回の震災と原発被害で強制退去を余儀なくされました。
 
とても大変な日々なのに、ご住職が自ら運転して、現地を案内してくださいました。
 
わたり町を通り、浪江町に向かいます。わたり町では、当時瑞龍寺の庫裡の2階は、濃度はひどい数字だったそうです。わたり町を通り川俣町に入りました。
 
川俣町の先には、食べる場所とトイレ等はまったくないので川俣町で昼食をとることにいたしました。川俣町はシャモが名物らしくシャモラーメンと書いてある看板を何回か見かけました。
 
この川俣シャモは、原発被害の時も廃校利用した室内飼育だったので出荷ができたのだそうです。
 
浪江町が近くなってくると、目立ち始めたものがありました。それは、黒いビニールの大きな玉です。それは、城壁のように綺麗に積み上げられているのです。1つの重さは、約1トン。
 
中身は、放射能で汚染された土を3cm取り除いたものが、詰められた物です。家の壁などは、拭くだけだそうです。これで良いのでしょうか。結局取り除かれた土は、山積みになったままです。
 
14時10分・・・・・検問を通り、浪江町に入ります。
 
静かです。時が止まっているように思えるぐらいに静かです。一気に計測器の数字が上がります。 
 
私が感じたことは、排気ガスや生活排気がない為なのか写真で例えればピンボケでは無くて、木の緑や建物がはっきりと見えるのです。確かに放射能で汚染されているのに・・・・・。
 
  あの日あの時まで、何時もと変わらなく過ごしていたのに突然にそれはやってきました。家人が帰れない家には、丹精して育てたと思われる庭の花々が綺麗に咲いていました。その花の色は、鮮やかな赤であったり、黄色であったり、その花の色が鮮やかであればあるほど切なく、悲しみで胸が詰まりました。
 
90日に1回の立ち入り許可のみの上津島町。確かに通過しているときの測量計の数字は2.3→3.0→7.3→8.6・・・・・・トンネルを出たら数字は0.・・・・・台に。くぼんだ所は溜まるので数字が高いそうです。当時、開通間近だった高速道路も除染をして近々開通をするそうです・・・・・。
 
お寺も酷い被害を受けています。太い梁も歪み、裂けています。あの時の地震の揺れの凄さは計り知れません。庫裡の台所には当初、豚が残っていた食べ物を食べて住んでいたそうです。
 本当に痛ましい限りです。放送が流れます「・・・・・・4時までにこの場から出るように・・・・」
 
 浪江町請戸漁港は、今も当時のままでした。建物の土台だけを残し、車などその津波に押し流されその姿はスクラップ状態です。それは酷く錆びて、見ると悲しさが増します。・・・・あの時のそのままのような気がいたしました。
 
何も変わっていないのです。帰途困難地域ではなく不可能なのではないかと思えるような情景でした。
 
南相馬市原町で、人が行き交うのを見て不思議な感覚を覚えました
 
原発被害を受けた地域での生活はとても困難なことが伝わりました。
写真は除染をして取り除いた土!
除染は土地の土を3㎝取り除き、建物は拭くだけだそうです。
その取り除いた土は、浪江町の土地に黒ビニールに詰められて、山積みになっています。1つの重さは約1トン!

 

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