毎日とても暑い日が続きます。皆さま体調を崩されていませんか。
8月18日(日)1時よりに盂蘭盆会・施餓鬼をいたします。
施餓鬼が終わってから、キャンドル供養をいたします。今年初めての試みなのでとても楽しみです。
「お施餓鬼をします」と言うと、「毎年毎年、施餓鬼をするというが、うちの先祖はずっと餓鬼に落ちたままなのか」と思われる方もおられるようです。
これは、施餓鬼の供養を自分の家の先祖にのみ結びつけるから、そういう考え方がでてくるのでしょう。しかし、仏教ではむしろ無縁の衆生をこそ、その苦しみから救うべきであると考えるのであり、そういった教えがよくあらわれているのが、この施餓鬼会なのです。
修行中の僧が食(じき)をいただくとき、鬼神に施すため、合掌して七粒の飯を鉢単の縁におきます。鬼界の衆生に施す飯なので、これを生飯(さば)といいます。そのとき、お坊さんたちは、
「汝等、鬼神衆よ、我れ今汝に供を施す。此の食を十方に遍くして、一切の鬼神と共にせんことを。上(かみ)は三宝に分ち、中は四恩に分ち、下(しも)は六道に及ぼし、皆同じく供養せん」
という意味の偈文を唱えます。
すなわちこれは、食を一切の鬼神に供養するとともに、さらに仏法僧の三宝にわかち、父母・衆生・国王・三宝の四つの恩にわかち、六道にも及ぼして、平等に供養するという考え方からきているのです。
つまり、仏教ではもっとも苦しんでいる存在(ここでは餓鬼)へ、慈悲の手をさしのべることを大事としておりますから、施餓鬼というお供えは、日々の修行として勤めているのですが、これを、広く在家の人と一緒に行いましょう、これはいい功徳なんですよという意味で、施餓鬼会を行っているわけです。ですから、決してご先祖が餓鬼道に堕ちているという意味ではないのです。
どうしてこの施餓鬼会が、先祖供養と結びつくのかと思われる方もおいででしょう。
こう考えていただければ、よろしいかと思います。
今、さいわいに私は、私の父母・祖父祖母・曾祖父曾祖母……と縁のある先祖に対して、追善の供養をすることができる。しかし、それでは縁なき衆生の供養はだれがしてくれるのだろう。その縁なき衆生は、わたしの生命につながりはないのだろうか。この無縁の万霊の供養は、「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」と回向文にあるように、仏教の慈悲の教えに根ざしたものではないだろうか。
また、こうも言えます。
私たちが施餓鬼会の一人の施主であると同時に、私たちは、ご先祖になり代わって施主を勤めるのでもあるのです。すなわち、亡き人が生前においてなされた布施の功徳を、さらに私たちが引き継ぎ、補い積むという意味で、亡き人をも施主の立場に見立てた供養が、この施餓鬼なのです。したがって、それがまた先祖への供養になるわけです。