お静の方縁起

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お静の方
天正十二年(1584)~寛永十二年(1635)
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の側室
会津藩祖山形藩主保科正之の生母

北條家家臣神尾栄加を父にもち、慶長年間に二代将軍秀忠の乳母大姥局に仕えその際秀忠に見初められます。 その後懐妊し見性院(武田信玄の次女穴山梅雪正室)の元に預けられ、慶長十六年(1611)に幸松(後の保科正之)を出産。
元和三年(1617)幸松が高遠三万石藩主保科正光の子とされ、名を保科正之と改めお静の方もそれに伴って高遠城に住むようになります。寛永十二年(1635)同地にて五十二歳で逝去されます。お静の方は法華経の信仰篤く、日蓮宗長遠寺(高遠町)に葬られその後日蓮宗総本山身延山久遠寺に改葬されております。墓は身延山篤信者廟内に生前薫陶を受けたお万の方(徳川家康側室)の隣に安置され、法号は浄光院法紹日恵大姉と号されております。
正之は寛永十三年(1636)異母兄である三代将軍家光より出羽国最上二十万石に移封を命じられ、当山形藩主として栄転入部された折に当山を母お静の方の霊牌所と定められました。高遠長遠寺より日遵上人を迎え、当山の第四世となし寺号を母の法号にちなみ本眷山浄光寺と改称され、今日に至ります。
寛永十四年(1637)将軍家光より保科家代々の家宝を保科家本流である保科正貞に譲り渡すように命じられ徳川家の一員として認められます。その際正之は徳川家の証として拝領した葵緋紋白五条袈裟同紋重箱を当山に寄進され、今もなお寺宝として格護されております。なお正之は寛永二十年(1643)会津二十万石に任命され、会津松平家の藩祖となり幕府より松平姓を名乗ることを許されましたが、養育してくれた保科家に対する恩義を忘れず生涯保科姓を通されました。


浄光院法紹日恵大姉の御位牌


保科正之公拝領の袈裟と重箱

「まことにもくるる夜ごとに野辺にふせる枕のもとの草の露けき」(保科正之)

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