縁起と沿革

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当山は、本眷山浄光寺と称し遠く天正六年(1578)創立の日蓮宗中本寺です。
顕本法華宗の開祖玄妙院日什大正師が創立された、会津妙法寺(顕本法華宗別格山)の第五世日満上人は、法弟にあとをゆずり毘沙門天王を奉持し北方弘教を発意され、山形城外の吉原村に法喜庵を結び、此の山形の地に初めて法華経を弘めました。学徳高く法力優れた上人の弘教は四方遠近に広まり、望んで帰依渇仰するもの多く、その名声は城下に及びました。
その頃、城主出羽守最上義光公の父君義守公病重く、名医の薬石も効なく命旦夕に迫り、城主をはじめ一族老臣の心痛一方ならず、人事を尽くしてその効なければ神仏の冥助を仰ぐより外なしと決意し、法力すぐれた日満上人に病の平愈を請われました。日満上人が北方弘教のために会津より奉じていた毘沙門天王に一心専念祈祷したところ、霊顕あらたかに病は快方へ向かい、城主義光公は大いに喜びました。その報恩のため、義光公は城内の現在地に一万坪の寺地を与え、一大伽藍を寄進し妙法山法華寺と号したのが当山の創立となります。
その後、幕府からの顕本法華宗弾圧を受けた折、熟義の結果その動揺を懸念し格式高い江戸谷中瑞輪寺第六世、高徳の日桂上人を当山第二世として迎え、普光山本眷寺と改称して身延山久遠寺の末寺となります。
時は流れて寛永十三年(1636)、二代将軍徳川秀忠の第三子保科正之公(松平肥後守)は高遠(信濃国)より山形城主として栄転入部され、当山を日蓮宗の熱心な信者であられた母お静の方(浄光院殿法紹日恵大姉)の霊牌所と定め、高遠より日遵上人を迎え当山の第四世となし、母の法号にちなんで寺号を本眷山浄光寺と改称し、今日に至っています。

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