乾性寺について

乾性寺縁起

長寿院殿妙遠日久大姉

乾性寺(けんしょうじ)は、乾性院日進の開山で、題目宝塔と左右に配置された釈迦多宝如来を本尊とする日蓮宗に所属する寺院。

寺の記録によると、元和5年(1619)7月に、
高槻藩2代目藩主 土岐定義(江戸時代の元和3年(1617)に徳川幕府が行った高槻城の大修築で手腕を振るった)が母の菩提のために、寺地を寄進し創建されたとなっている。

乾性寺墓地には、元禄7年(1694) 年記の「長寿院殿妙遠日久大姉」と法号が刻まれた墓石が現存している。

長壽院殿妙遠日久大姉(南健吾様 作)

その後、正保4年(1647)に山火事から類焼し、創建から28年で建物を焼失した。

2年後の慶安2年(1649)に高槻藩主永井日向守直清に上言し再建を願い出て堂舎の再建がかなった。

再建から四十数年後の元禄4年(1691) 3月28日に永井家3代目藩主永井近江守直種の請いにより妙見尊を勧請し妙見堂を造立し、
後に鐘楼(第二次世界大戦中に供出し現存しない)、山門、その他の諸堂と庫裡などを再建し寺院の形態が整った。

永井直種公

しかし、明治以降は荒廃が続き、本堂・庫裡・山門を除いて破却された。現在の本堂は昭和57年(1982)に、
山門と妙見堂は平成5年に老朽化により建替えられ、庫裡についても、増改築の繰り返しで、江戸時代の建物は残念ながら残されていない。

現在の本堂は、銅板葺に替えられたが、以前は瓦葺きであり、
使われた瓦は「天吉瓦(天吉は高槻市天神山の麓で江戸時代~明治時代にかけて瓦屋をいとなんでいた谷村家(現西島家)の屋号をあらわす。

天吉の天は天神前、吉は世襲名である吉兵衛を略したもの)」と呼ばれているもので、旧本堂の鬼瓦がしろあと歴史館に保存されている。

それには「寛政十一年戊未八月天神前瓦師吉兵衛」と銘が彫られている。

乾性寺の梅について

妙見堂の前の紅梅の古木は、永井直種のお手植えで、
毎年2月25日に藩主が上宮天満宮参拝の際に立ち寄られ観賞されたと伝えられている。

乾性寺と永井家の関係の深さが窺える資料として、
文化9年(1812)、妙見堂前の鳥居を木製から元の通り石造に作り替えたいと、乾性寺から藩へ願い出た文書が、高槻市しろあと歴史館に残されている。

妙見堂前に現存する石鳥居は、その時に建てられたもので、「文化九年」の銘がある。

この老紅梅は、樹齢360年を数え、一時期枯れかかっていたが、樹木医の診察治療により回復し、今も見事な花を咲かせている。

本堂裏山の墓地には、
高槻藩の中堅家臣で頼山陽に学び七言絶句にすぐれた幕末の漢詩人 藤井竹外(文化4年(1807)~ 慶応2年(1866))の墓所(最初に建てられた墓石は本行寺に移されている)があり、
漢詩を志す人や詩吟会の人々が定期的に参拝されている。

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