年に一度の子育て祈祷会である願満鬼子母尊神・守護神大祭を令和3年6月5日(土曜日)の午後2時から当山本堂の祈祷壇で執り行いました。
今回の祈祷会においても新型コロナウイルス感染症の対策として、修法師が参拝者に加持祈祷を行う際はマスクを着用し、一連の所作も簡略化しました。さらに、他の法要の時と同じく「風通しのために本堂扉を開放」「十分な間隔を確保して参拝者席(椅子)を配置」「本堂入口に手指の消毒薬を設置」を実施しました。また、毎年お子様連れで賑わう「お菓子のつかみ取り」などのお楽しみコーナーはとり止めにいたしました。不本意な形での開催になりましたが、このような時期であるからこそ祈祷会を執り行う意義があるとも考えます。
ところで、鬼子母神という神様の名はよく耳にされると思いますが、改めてその由来を振り返ってみたいと思います。その名に「母」の字があることからお分かりのように、世間一般には子育てに関わる神様として信仰されています。日蓮宗小事典(法蔵館)によると『鬼子母神(きしもじん)』の項目に『サンスクリット語のハーリティーの意訳。歓喜母、愛子母ともいう。インドの邪神で人の子を奪い取って食っていた。しかし、人々の悲しみを憐れんだ釈尊の教化により懺悔し、以後は仏弟子となって子授け、安産、子育てなどの善神となる。』と解説されています。インドにおけるこの鬼子母神信仰は庶民信仰として日本でも受け継がれ、主に密教系の仏教宗派に取り入れられてました。
日蓮聖人の法華経信仰においても鬼子母神信仰は重要な役割を担っていますが、他宗派とは根本的に鬼子母神の捉え方が異なっています。聖人は法華経第26章である陀羅尼品の経文を拠りどころとして鬼子母神を法華経行者の守護神として位置付けておられます。以下、日蓮聖人が御遺文「日女御前御返事(にちにょごぜんごへんじ)」で、陀羅尼品の大意および鬼子母神について解説されている部分を挙げます。なお、ここに「十羅刹女」という名の鬼神女が登場しますが、これらは鬼子母神の娘のことであり、聖人は文脈からみて鬼子母神と十羅刹女を一体で捉えておられると考えてよいと思います。
<日女御前御返事(現代語訳:日蓮宗電子聖典による)>
『陀羅尼品というのは、二人の聖人と二人の天人、ならびに十人の羅刹女が法華経の行者を守護することを明確にしたお経である。二聖とは薬王と勇施に二人の菩薩のことであり、二天とは毘沙門と持国の二天のことである。十羅刹女と云うのは、十人の大鬼神女のことで、四天下のすべての鬼神の母にあたる。また十羅刹女には鬼子母神という母があった。鬼なので人を食べることが日常の生活であった。人間には三十六の物質が備わっているが、それはすなわち糞と尿と唾と肉と血と皮と骨、それに五臓と六腑と髪と毛と気と命等がそれである。これらのうち下級の鬼神は糞等の不浄なものを食べ、中級の鬼神は骨等を食べ、上級の鬼神は精気を食べるのである。この十羅刹女は上級の鬼神なので精気を食べるのであり、疫病の大鬼神である。』
ここで注目したいのは、日蓮聖人が十羅刹女(鬼子母神)を疫病の大鬼神と述べておられることです。このことに対応していると思われる記述が陀羅尼品の中にもあります。この経文では、十羅刹女は様々な悪鬼の名前とともに、かなり具体的に熱病(疫病)の内容を述べて、それらからの法華経行者の守護をお釈迦様に誓っています。以下にその経文を挙げます。
<陀羅尼品(現代語訳:現代日本語訳法華経、正木 晃 著による>
『たとえわたし(注:鬼子母神・十羅刹女)の頭を悩ますことがあろうとも、法華経を説きひろめる者の頭を悩ますことなかれ。夜叉であろうと、羅刹であろうと、餓鬼であろうと、富単那であろうと、吉蔗であろうと、起死鬼であろうと、鳩槃荼鬼であろうと、烏摩勒伽であろうと、阿跋摩羅であろうと、夜叉吉蔗であろうと、人夜叉であろうと、毎日か二日おきか三日おきか四日おきか七日おきかに発病する熱病であろうと、男のすがたで、女のすがたで、少年のすがたで、少女のすがたであらわれる魔性の者であろうと、あるいは夢のなかにあらわれる魔性の者であろうと、法華経を説きひろめる者を悩ませてはなりません。』
この経文の後、鬼子母神・十羅刹女は十句の詩(省略)を説き終えると、以下のとおり、お釈迦様に対して法華経行者の守護を固く誓います。
<陀羅尼品(現代語訳:同上>
『世にも尊きお方(注:お釈迦様)。私たちもまた身命を賭して、この法華経をいちずに信じ、読み、記憶し、修行する者を守護して、安穏な状態にみちびき、もろもろの苦悩から開放し、いかなる毒薬も効かないようにしてあげましょう』
さて、今ここで、我々が心に留め置くべきは、鬼子母神・十羅刹女は我々法華経行者の守護をお釈迦様に対して命懸けで誓われているということです。誓う相手がお釈迦様ですので、この誓いは非常にレベルの高い誓いと言えます。それ故に、我々がどの程度の法華経行者(信者)であるかということも問われることになります。いい加減な信心では鬼子母神・十羅刹女のご守護は望むべくもないのは明らかでしょう。