新年に来し方行く末を思う・・・令和二年新年祝祷会@梅津本福寺

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  梅津本福寺のある京都洛西の地では、快晴とは言えないものの穏やかな天候で新年を迎えました。元旦正午からは当山恒例の新年祝祷会を執り行い、篤信の善男子善女人の参拝のもと、壱番開帳と年中安泰、除災招福のご祈祷を行い、今年一年の精勤不退の誓いを新たにしました。

   さて、今年のお正月は多く日本人にとって、いつもとは少し様子が違ったお正月であったろうと思われます。昨年は5月に令和へ御代替わりしましたので、実質、今年が令和の初年度となります。このような時期に当たっては、過ぎ去った平成とはどういう時代であったのか、これからのやってくる令和はどんな時代はなるだろうかと、不安と希望が入り交じった感慨を多くの人が覚えられたのではないでしょうか。

   残念ながら平成の時代は、その名が示すような平らかな時代ではありませんでした。国内では天変地異が頻発し、政治・経済からみると国情は停滞を極めました。国外では各地で紛争が絶えることなく、特にアジアの近隣諸国では一触即発の状況が続いています。

   新しい令和の時代もその状況が続くことは避けられないでしょう。さらに、このような外的影響だけでなく、我々日本人の心の問題も気になります。日本人としての価値観が揺らいでいる、あるいは溶解しているという気がしてなりません。この現象は、特に平成の時代に始まったことではなく、戦後、あるいはもっと言えば明治維新以降の近代化に伴って起こったことかもしれません。日本人として誰もが共通に抱いていた国と人の有りよう、言い換えれば国家観とでもいえるようなものが薄められている、あえていうと蝕まれているのではないか、令和への御代代わりに遭遇し、改めてそのことを思いました。

   では、これから何を頼りに新しい令和の時代を生きていけばいいのか。日蓮聖人の教えを信奉する我々にとっては答えは明白です。

   神国王御書(しんこくおうごしょ)という御遺文の一文を以下に紹介します。「この鏡に浮んで候人々は、国敵・仏敵たる事疑ひなし」との厳しいお言葉、明鏡の中の神鏡である法華経をもって日本の国を見るべしとの教えです。

(原文)
   今いま日蓮、一代聖教(いちだいしょうぎょう)の明鏡(めいきよう)をもって日本国を浮(うか)べ見(み)候に、この鏡に浮んで候人々は、国敵・仏敵たる事疑ひなし。一代聖教の中に、法華経は明鏡の中の神鏡(しんきょう)なり。銅鏡等(どうきょうとう)は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮ぶるのみならず、心をも浮べ給へり。心を浮ぶるのみならず、先業(せんごう)をも未来をも鑑(かんが)み給ふ事くもりなし。

(現代語訳:日蓮宗電子聖典による)
   いま、日蓮が一代仏教の明鏡に日本国の現状を照らしてみるのに、この鏡に浮かんだ日本国の人びとが国敵、仏敵であることは疑いないのである。一代仏教の明鏡中においても法華経はとくに明らかな神鏡である。銅の鏡は人の顔形を映すけれども、心を映すことはできない。法華経の神鏡は人の姿形を映すばかりか、その心までも映すのである。しかも現在の心を映すだけでなく、前世の業から未来の果報までもありありと照らし見ることができるのである。

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