稲は変じて苗となる。苗は変じて草となる。草変じて米となる。米変じて人となる。人変じて仏となる。
稲の種は苗となり、苗は稲草となる。稲草は米となって実り、米は人の命を育む。そして人は、仏(幸せな人)と成ることができる。
日蓮聖人のお手紙「王日殿御返事」より
「人は死ねばゴミになる」と言った人がいる。ゴミとは、不要なもの、役に立たないものということだろうか。
人は生きている間、努力を強いられる。努力は美徳ともされる。人が死んで、ゴミとなるならば、生きている間の努力に何の意味があるのだろう。命ある間は、仕方なく努力して、生きるしかないから生きる、ということになる。人が死んでゴミとなるならば、生きているうちからゴミなのだ。
そのゴミを宝に変えることができると、法華経は説く。今の努力はやがて実を結ぶ。それは死によって断絶されるものではなく、来世にも引き継がれる。
努力の積み重ねによって、人は仏という、この上ない幸福な人と成る。ただし、それはお釈迦さまの教え(法華経)を、信じて行った者のみであって、教えを信じて行わぬ者の心身はゴミのままであり、死んだらゴミになるしかあるまい。