日蓮宗本来の面目

    

   
☆活動の前提としての発題

世界規模で展開されてきたグローバル化により、
互いに異なる人種や民族、思想や宗教、
文化や文明を所有する人間どうしの密度が濃くなり、
より共存し、共生することへの意識が高まってまいりました。
そして、コロナウイルスがやって来ました。
人間同士の格差というものが逆にコロナを近くへ引き寄せました。

これからの未来を考えるに、
多元化社会を避けることが不可能なことならば、
健全なる実現を創造するほかありません。
その前提条件として共有すべきことがあります。
それが、「対話」=
多様にして異なる立場を相互に認め合うコミュニケーション
と考えます。

文明、宗教、価値観、倫理における相互の対立は、
人間の尊厳を脅かし、世界の各地で衝突を発生させています。
この不安を解決し他者に対する尊厳性を再構築する為に
共有すべきものとして採り上げるのが「対話」に他なりません。

この「対話」の価値に、我々人類が広く且つ深く覚醒することが、
​人間相互の深刻な対立をより深い共存共栄に導くきっかけとなります。

「対話」は
人間相互の関係性において生じるあらゆる対立・決別・葛藤を
根本的な解決に導く為の前提条件であり、
賢明なる戦いの秘策となり得ます。
これまでの近代文明社会では
「対話」に関心が示されることはありませんでした。

人類は腕力→道具の開発力とその使用能力→
火力→情報力→知恵力へと戦い方を変遷してきました。

しかしこのどれもが「相手を打ち負かし自分が勝つ」という着地点、
非対称的結果しか導き出せてきませんでした。
真の智慧は
「相手の価値と尊厳をその本人以上に高くする」ことにあります。
その点に於て、
近代思想がもたらした「討論(ディベート)」をはじめとする知恵の戦いは、
根本的な誤りを引き起こし、
現代社会において深刻な対立を発生させる原因となりました。

「対話」の目的は「討論」とは異なり、
文化、文明、思想、宗教、政治、教育、経済、経営、福祉等の
あらゆる分野において、相互の関係性から生じる
諸問題そのものを価値に変えるシナリオを導き出します。

今後、人類全体が希求する課題こそが、
あらゆる分野に発生する深刻な対立を対話によって解決する事であり、
その実現に向けた取り組みが、
多様な学問の間で真摯に模索されています。

そして宗教者に求められる課題こそが、
諸宗教対話共同体を設立する事であり、
諸分野における対話のための基本的な智慧のモデルを、
社会に提供する事にあるのです。
「対話」をあらゆる出逢いのお伴とすべく、
できるだけ多くの人と共有するために何が必要か、
どんな取り組みをすべきか皆で考えていく必要があります。
ここで申し上げる「対話」は
異なる宗教者同士が対話するという
セッティングされる場のことというより、
いかなる場面においても、
人と人が出逢い何らか相互に干渉し合うとき、
より深く建設的な先行きを導き出す
前提とプロセスに焦点を当てたものです。

  
 
☆三つの柱を活動する前提としての「対話」という出逢い方

国際交流会には、
国際交流・国際協力・宗教対話という三つの柱があります。
そしてこのどの活動も宗教的深い意味があります。
どの活動も大いに推進していかねばなりません。

それにあたっての前提として認識すべきことは、
思想や価値観、信仰や倫理、習慣や育った風土の違いを
どう越えるかです。

実はこの自他の「違い」について、
我々は近代において満足のいく姿勢を見いだせていません。
善悪・正邪・美醜・優劣・良否を整理することは認めても、
二つに分けたものの一方にだけ価値があり
もう一方には価値がないという認識は
果たして賢明なる判断なのか?
このことと真摯に向き合う必要があると考えます。

例えばキリスト教徒に対して我々がイエスキリストのことを何と呼ぶべきか?
ということについて、
対話は意外にも容易に答えを導き出します。
人類は腕力から智慧にまで戦い方を進化させましたが、
その関係性認識の構造は残念ながら原始的なままです。
ありがたいことに、我々には共有信奉する仏教があり、
仏教には「慈悲」の姿勢があります。
さらには一念三千の法門があり、
不軽菩薩の但行礼拝があります。

当人以上に当人の尊厳を見いだせる理性と情緒、
自分と出会った他者との関係によってこそ行われるとする観心の修行、
煩悩と業と苦悩を菩薩行に転換せしめ、
凡夫そのままの存在の中に輝く仏様に確信する。
「対話」というコミュニケーションを紐解いてみますと、
図らずも、こうした我々が継承すべく法華経に託された人の振る舞いが、
一般社会の中で語られているかのような事実として見えてくるのです。
果たしてそうなのか、または思い過ごしか。確認をする意味はあると考えます。

もしも、この対話というコミュニケーションが
不軽菩薩の但行礼拝の意業による行為であるならば、
宗教の大きな前進と成りましょう。
日蓮聖人に対する誤解を解く鍵になる可能性もあります。

そして、そこからより深く豊かな自他の関係性が生まれたならば
「伝道ではない伝道」という新しい救済の分野が生まれると考えます。
伝道信行の真っ只中に取り組みながらも
全く相手には宗教活動をされているとの不快感を抱かせない営み、
そしてそれでいてその人の大切にする信仰信条を汚さない。
それはパウロによって福音書から見出された
カリタスの教義に基づくキリスト教徒における
国際協力活動に向ける信仰的情熱との法友となりえます。
発会のはじめの一歩として、
ダイバーシティを悠々と楽しむ人材の資質
「対話という出逢い方」についての研鑽をし、
「違い」と「対立」を越える、
当会三つの柱活動の前提条件を共有する試みと致したいと思います。

 
☆宗門運動「合掌礼」と宗教対話

昨年度の日蓮宗宗務院伝道部松井大英部長の
「布教方針」についての説明では、
「ここでいう合掌というのは、感謝の合掌でも、挨拶の合掌でもなく、
但行礼拝の理念に基づいた合掌礼であります。
それが日蓮宗の合掌であります。」
と述べておられます。

また「布教方針」にある、
「教師が姿勢・振舞の手本とすべき存在はいるのか。
それが不軽菩薩である・・・ 
他者の仏性を信じ、そしてその人が菩薩の行為をすることを信じ・・・云々」
また「他者が菩薩の行をすることを信じる合掌。
ですから、合掌で他者を深く敬う、
それがここで言う所の『いのちに合掌』なんです。」
と説明されています。

宗門に展開する立正安国・お題目結縁運動の布教方針において、
教師がその行動の手本とすべき存在は「不軽菩薩」であること、
したがって合掌礼の実践は但行礼拝を根拠とするわけですが、
この不軽菩薩の但行礼拝は「他者を深く敬う」ことであります。
ところで、ここでいう「他者」とは誰を指すのでしょう?

「一切衆生悉有仏性」のなかには異教徒は入るのでしょうか?

インドを統一し仏教国としたアショカ王の言葉に
「他の人々の宗教は、尊敬に値する。他の宗教を敬うことは、
同時に自分の信仰を敬うことになる。
自分たちの礼拝の場で、自分の信仰ばかりを賞賛し、
他者の信仰を中傷するならば、
その人は、自分自身の信仰に対する重大な罪を犯していることになる。
あらゆる者に、他者の真実体験を聞かせ、倣わしめよ、
これがアショーカ王の願いである。
王は全ての宗教が他の宗教から学ぶことを望まれておられる」
とあります。

「他者の中に仏性を見る」「他者を深く敬う」いわば但行礼拝の意は
単なる盲信ではなく確固たる実感の伴ったものでありましょう。
それは「異なり」が大きいほど、
また、自分の抱く好ましからずの印象の強さが強い他者ほど、
敬いの念は深くなるものです。

この宗教対話、および対話という行為は、
合掌礼のもう一つの実践として、
極めて宗教的性格を脱色されてもなお
その教えに準じた姿勢・振舞いとなります。

参考 日蓮宗宗報令和元年12月号掲載 令和元年度全国所長会議議事録
 
 

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