11月2日の第2回勉強会では、
『グローバル時代の宗教間対話』「第六章」を会員で拝読し、意見交換をしました。
意見の一例
・宗教対話は、「問題点を覆い隠している」ということだが、それは具体的に何だろうか?
→暴力性、宗教対話をしようとした結果生じた失敗など
→また、宗教間の明らかな違いなどを見ずに済ませ、結局すべて同じであるという結論を導こうとする傾向がある
→さらには、現状、宗教対話が成り立つのは「穏健派」のみであり、いわゆる「過激派」との対話は事実上不可能で、彼らの主張を聞くことができていないのは問題なのではないだろうか
・かつてキリスト教は、自分たちこそが正しく、その正しさを伝達するという態度をとっていた
→その件について反省したのが第二バチカン公会議であり、この反省を他の宗教も見習う必要があるのではないだろうか
・宗教にある「政治性」について
→「政治性」とは、権力的構造や上下関係が存在しているということで、他者との境界を区切ることで自己のアイデンティティを確立する時、そこに何らかの意図(ここで区切りたいという意志)があることを指す
→例として、祖師を同じくする教団はすべて同じ教えであると括る時、またどちらかが優れていると述べる時、そこには何らかの意図があり、権力関係が生まれている=政治性があると言える
・「教室」と「食事の場」
→留学の際、多くの生徒たちは教室では当たり障りのない意見を言うことが多く、そのおかげで成立している
→しかし、その後食事などをともにすると、少し踏み込んだ話になる
→諸宗教対話は「教室」の中での話になってしまいがちで、交流がどの程度生きるかは、その後「食事の場」に行けるかどうかに関わっていると思う