宣誓文

   

 
宗教が本質的にもつ宿命的矛盾とも言うべき点について、まず若干触れるところから始めてみたいと思います。

そもそも、宗教とはそれ自体、政治とは最も距離を置いた対局に在り、
双方は両極の一方ずつの位置関係にあり、共に対照的な固有の特性を持っています。

ところが、その一方の宗教が、ひとたび現実社会との関わりを契機として歴史化した時点で、もう一方の教団という政治集団形態を採らざるを得ない自己矛盾を内包しているのです。

すなわち、本来神や仏との遭遇を経て、個人の自我(エゴイズム)が否定されたところに発生する宗教が、同信の同志を団結させ教団を形成した時から、はっきりとした政治性を帯びた集団としての自我が生じ、次第に教条的イデオロギー化へと傾斜していくことになっていきます。

宗教の持つこの矛盾的自己同一性は、宗教にとって避けられない宿命で、教団人としての一人一人が深く自覚し、自制しなくてはならない重要事項で、これは一口で言えば、個の独善を排して生まれた宗教における宗教的独善と言うべきもでしょうか。
 
果たして日蓮聖人はこの点について、宗教者が常に忘れてはならない禁(いまし)めとして、自法愛染(自ら信奉する本尊や教法に対して執着してはならないとするいましめ。即ち信仰と執着との明確な区別)に対する正しい認識を勧め、自らも「智者に我が義破られずば用いじとなり」(「開目抄」定遺六〇一)「其理にまけてありとも、其心ひるがえらずば、天寿をもめしとられかし」(妙一女御返事」定遺一七八三)等と、厳しい自己批判に立った上での法華経信仰の正しい在り方を訴えられています。そればかりでは止まりません。
 
日蓮聖人においては、この宗教のもつ本質的自己矛盾によってもたらされるところの宗教界全体に関わる閉鎖性についての弊害を、根本的に解決する目的のために起こされた行動こそ、あの「公場対決」実現に向けての全力疾走でした。
全生涯を傾けて提言しつづけ、実現しようとされた「公場対決」は、日蓮聖人における宗教界解放運動であり、宗教界の正しい社会参加を促す上で、不可欠な自浄目的を実現するための絶対的必要条件とされていたものです。
つまり日蓮聖人は、どこまでも公平にして客観的評価に耐え得る「公場」において、各宗各派から常に教義や主張が持ち寄られ、そこで充分な議論や厳密な検証を経て、教理の浅深や教義の傍正を明らかにするためすべての宗教者が一致協力すべきであると考えておられたのです。

すなわち、宗教が正しく社会参加を遂げる前提として、宗教者各自があえて「公場」なる場面への参加を通じて自己批判を実践し、自身がすすんで離法愛(十乗観法における最後の煩悩)の煩悩を超克し、どこまでも理性的・普遍的合理を追求する自覚に立ち、宗教の独断性・閉鎖性・排他性に対し、厳密な管理の眼を向けるべきだと主張されていたものであります。
つまり日蓮聖人は、決して一宗一派の開祖となり、一教団を率いてその教団の維持と拡張を目論んでおられたのではありません。むしろ、全世界の宗教の本来の在り方の統合を目指しておられたのです。
全世界の宗教者の中で、これほど早い時期に徹底した合理思考を採用して、宗教の普遍化への構造作りに着手し、これを提言された例はありません。しかも、実施にあたっての原理論に関する基礎素材まで、すでに提供しておられるかのようです。
 
日蓮聖人が、鎌倉幕府に対してその生涯にわたって主張しつづけられた「公場対決」についての行動は、その宗教的使命の立場から、必然の帰結と言うべきものだったのです。
 
思えば、たとえいついかなる時代や社会からの問いかけに対しても、常に的確な指導原理を提供し得る宗教界であるための努力は、宗教者としての誇りにかけても片時も忘れる事は許されません。
その意味で、宗教的主体性を堅持したままで社会参加を実現するための「公場対決」の必要性は、今日において些かも変わらず、むしろ比較思想や比較宗教等の学際的要求が高まる昨今では、急務の必要に迫られているのではないでしょうか。
 
もっとも、日蓮聖人の時代背景は、もっぱら武断独裁政権の時代であり、奪権闘争を基盤とした封建社会でありましたから、いきおい「公場対決」という言葉になり、「対決」や「対論」と言う一見すれば闘争的とも思われる響きの表現が用いられることになりました。
しかし、それはあくまでも教学的・教義的な議論の厳密さや深刻さを伺わせる意味で使われたものではなく、決して世間一般に解釈される戦闘的・闘争的な意図をもって表現されたものではありません。
その点から、日蓮聖人の時代背景とはあまりにも大きく変容した現代社会では、個人の自由・尊厳・平等は保証され、あくまで話し合いで決議する民主主義が徹底的に浸透していますので、「対決」や「対論」と言うよりは「対話」であり、どこまでも真摯な相互の求道的研鑽の姿勢が求められるはずです。

日蓮聖人は言うに及ばず、親鸞聖人、道元禅師、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、その他世界中の各宗教の立場から、それぞれ独自な平和理論が遺憾無く引き出せるとしたら、そして相互間の忌憚なき対話を経てその内容を従浅至深せしめて、真に普遍的説得力を有する平和実現のための理論が確定したら、素晴らしいことに違いありません。それはいかなる宗旨を持つ人であっても共に踏む人類の宣誓の場となるではないでしょうか。
以上のような要旨に従って、当会は活動を進めて参ります。
 

 

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