釈尊伝にみる諸宗教対話の必要性

お釈迦さまが出家され、
始め、ふたりの師匠について修行をされ、
あっという間にその師匠の覚りの境地に達せられますが、
お釈迦さまが求めていた境地ではありませんでした。
そこで、三人目の師匠につこうとされますが、
あまりの宗教対立に辟易されて、
師匠につくことをあきらめ、苦行に修行法を変えられました。
修行法には、瞑想修行と苦行とがあり、
瞑想は師匠につく必要があり、苦行は師匠につく必要がなかったからです。

その時の、宗教対立・思想対立・排他的独善性のなかで論争されることを、
当然、お釈迦さまは真理に外れる態度であることを承知されていました。

そのことは、ブッダとなられて、お説法されています。
その内容が、スッタニパータ八七八〜八九六に納められています。

以下その内容です。(鈴木隆泰先生の訳文による)

世の中の諸々の宗教家たちは各々の見解(教義)に固執して、論争しながら自分だけが真理に達している、私のように知る人が真理を知る者であって、これを非難する人はまだ未熟者であると様々に喧伝している。そのように自説に固執して論争し、他の者たちは愚者であって真理に達していないと言う。彼らは皆自分だけが真理に達していると語るが、彼らのうちで誰が真実を語っているのであろうか。もし他者の真理を承認しない者が愚者であり、愚人であり、智慧の劣った者であるならば、彼ら全員が各々の見解に固執しているという点で、全員とも愚者であり、智慧の劣った者ということになるであろう。また、もし自らが奉じる見解によって清浄となり、勝れた智慧をそなえるようになり、真理に達し、智者となるのだとしたら、彼らのうちで智慧の劣った者は誰ひとりいないことになる。報じている本人に真偽の検証のできない正当性を与えるという点で、彼らの見解は共通しているからである。(中略)
彼らは勝手に自らの見解を真理であると思いなしているため、他の者たちを愚者であると決めつけてしまう。ある者たちが真理である如実であると言うその教義を、別のある者たちは虚偽(こぎ)である虚妄(こもう)であると言う。このように彼らは自説に固執して論争しているのである。どうして彼ら宗教家たちは同一のことを語らないのであろうか。(中略)
真理に達したと語る論者たちは、どうして「種々の真理」を語るのであろうか。彼らは「多くの様々な真理」を他人から聞いたのであろうか、それとも自らの思索に従っているのであろうか。世間には「多種多様な永遠の真理」があるのではない。そのような真理があると思い込んでいるに過ぎないのである。彼らは種々の教義に基づいて偏って思索し、これだけが真理だ。他は虚妄だという、自他差別論に陥っているのである。
教義や言い伝えや戒や誓いや思想などに基づいて他人を蔑視し、独善的立場に立って自己満足し、他の者たちは愚者で真理に達していないと語る。他人を愚者だと決めつけ、自分のことは真理に達していると語る。彼らは自ら真理に達していると自称しながら、他人を侮ってそのように語るのである。(中略)
自説のみが清浄であると説き、他の教えには清浄はないと語る。このように、諸々の異説の徒は種々に執着し、自分の道を頑なに守って語るのである。
しかし、自分の道を頑なに守って語る者が、どうして他人を愚者だと決めつけられようか。他の説者を愚者だ不浄の教えを説く者だと論難することで彼は自ら確執(かくしゅう)をもたらすであろう。(中略)
教義に固執しこれだけが真理だと言って論争する者たち、彼らは皆、他者からの非難を招くことになる。たとえ称賛を得たとしてもそれはかりそめであって、教義への固執は決して心の平安をもたらしてはくれないのである。

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