no one left behind--のうわんれふとびはいんど

    
私は現時点では語学がほぼできない。
しかし世の中は横文字でどんどん溢れ始めているから、
一つ一つ調べながら腑に落とすのが習慣になっている。
今は検索で事足りるので一昔前に比べたら楽だ。

当日蓮宗国際交流会が取り組む活動は、翻訳によく似た作業がポイントになる。
翻訳=トランスレーションは、
意味や内容を変えずに別な形式に置き換えるという作業のこと。
ただし全く=で結べるものがあるはずはない。
だから仏教では受け取る側の持つ器(思考の規矩・思想価値観)について注目する。

仏教の歴史はトランスレーションスタディと言いうると思う。
お釈迦様はご自身の真の悟りは、
同じ思想価値観の高さに達した者にしか理解はできないという壁を、
いかに超えるかに苦心されている。そして「信」という装置を用いられた。

仏教が今の中国へと伝わった過程においては、
その時すでにあった儒教などの思想性を下地にしないことこそ不可能である。
近年は「格義」という概念も「文化対応型」と置き換えられ、
受け取り方に注意を促している。
漢訳仏典が見事な翻訳作業だったことに人類が気付くのは、
まだこれからの未来なのだろう。

異なる言語間における翻訳と同じように、
我々は常に日常的にこのトランスレーション能力を使っている、
単に人に話す作業の中で無意識に。これが対話的姿勢になる。
そこをすっ飛ばして、強引に相手の信条思想お構いなしに主張をぶつけていくところに、
全ての悲劇は起こる。
思想価値観や人種やカントリー、
そして宗教や思想性の違いによって悲劇は起こっているのではない。

今、アメリカで起きていることを、理解できな理解できないと語る人が多いが、
それはアメリカのアメリカ的認識をしていないだけのことだ。

ここまで腑に落ちてくると、今度は「同じである」「共感する」ということにはまり込む、
かなり心地が良いからだ。
しかしこれはどちらかというと近代的な、
均一性、画一性、標準化という個々の尊厳を消し去る方向へ向いてしまう。
「似ている」はいいけど「同じだ」に注意を促される。

共存とは異なる者同士がその異なりを持ったままで
共に互いの異なりを認め、共に存在しようとすることだと思う。
異なっていたものを解消して、同じになって生きるのではない。
それならわざわざ「共存」とは言わない。

これまでの社会は異なることに価値はないという前提から
始まっていると言っても過言ではない。
しかし注意深く自分のヒストリーを振り返ってみれば、
自分とは異なる何かを持った人によって常に窮地を救われていることに気づく。
「異なり」とは「自分にはできないこと」でもある。
また、自分ができることを他人もみんな同じようにできたら
お役に立たないと自分を蔑む人が増えるだろう。商売の基本もそうなのだ。

自分とは異なる他人が自分ファーストにおいて
貴重な存在であることに深く気づき始めると、
エゴが変容するのではなく、そのままで自ずと利他心が生まれる。
菩薩の心が誰しもの心の中に生まれ始める。
今、世界中で積極的に取り組まれ始めたSDGsにある
「誰一人置き去りにしない(no one left behind)」が、
「良いことだからやろう」ではなく、
「そうしたい」「そうせずにはおれない」と強く自分の人生に紐づいてくる。
体が先に動くのだ。

「当会の活動は実は仏教のど真ん中に立つ活動なのだ」と、
10月20日21日に1周年を迎える今、
改めて当会がこの大きな時代の転換潮流の中
スタートアップした意味を反芻する毎日、ワクワクな日常を過ごしている。  CS

    
 

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