LINE法話「挨拶」

「優しく話しかけなさい。顔に、目に、笑顔に、暖かい挨拶に、親切心を込めなさい。いつも明るい笑顔をたたえなさい。気配りをするだけでなく、心をこめて接するのです。」
この言葉は大勢の貧しい子供達を救ったマザーテレサの言葉です。

私たちは人と出会った時、別れる時に必ず挨拶をします。
当たり前のように挨拶をするので改めて意味を考えることはほとんどありません。
しかし「こんにちは」の語源は「今日はご機嫌いかがですか?」などを省略したもので、「さようなら」は「さようならば」からきています。

挨拶という言葉は元々、仏教から来ており、「挨」には「互いに心を開いて近づく」、「拶」には「迫る」「すり寄る」と言った意味が込められており、それが転じて辞典には、挨拶は「相手に敬いを示す行為」と載っています。

しかし、そうした意味があっても実際の挨拶は形式だけの行為に留まり、肝心な「相手を敬う」気持ちを忘れてしまっていることが多いのです。

東南アジアのタイやスリランカといった仏教国では日常的に合掌、手を合わせて挨拶を行います。この合掌という行為は元々インドで生まれた礼拝の作法であり、相手への敬意、感謝を表現する形とされています。
インドでは合掌して「ナマステ」と挨拶をしますが、「ナマス」には「敬う」、「テ」には「あなた」の意味があり、「ナマステ」とは「あなたを敬います」という意味になります。

この相手を敬い続けたことによって仏となった「常不軽菩薩」のお話をご存知でしょうか?
法華経で説かれたお話でこの菩薩は会う人会う人に礼拝を繰り返す「但行礼拝」という修行を実践されました。礼拝をされた人の中には馬鹿にされていると思い、石を投げつける者、杖で叩こうとする者、そういった危害を加える人々にさえも決して怒ることなく、「私はあなたを敬います。あなたは仏となられる方です」と言って礼拝を続けたのでした。

法華経では私たちは誰しも「仏性」という仏になれる種を持っていると説かれています。つまり、「常不軽菩薩」の「但行礼拝」は礼拝を通じて、出会う人すべての仏になる種、「仏性」の存在を見出して、あらゆる人を仏の道に導き、また同時に、その人への敬いを表す行為であったのです。そして「常不軽菩薩」はその行為によって悟りを得て仏となったのです。

私たちも人と接する時に、仲の良い人であっても、苦手な人であっても、初対面の人であっても、全ての人には仏となる種「仏性」があることを決して忘れることなく、常に相手を敬い、気持ちよく挨拶をいたしましょう。
そうすることによって相手とそして自分自身の「仏性」を育てることができるのです。

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