もう殆ど桜は散り、葉桜になりましたが、お寺の南方向500m近くには、桜の名所「西海子通り」があります。
西海子通り(さいかちどおり)について
さいかちどおりの名前の由来を調べてみました。
(現在、西海子小路という石塔が立てられている)
1.サイカチの木が植えられていたという説(現在の定説)
さいかち通りは、江戸時代の大久保-稲葉家の頃にはあの通りをさいかち馬場と呼んでいた。500mほどの直線道路で武士の馬場練習に使われていたもようです。付近には御馬舎小路という道路もあった。サイカチの木の実は洗剤として使われたこともあった。サイカチの木のとげは泥棒よけとなったともいう説もある。庭木としてはふさわしくないという話も聞いた。 とげが危なく失明の恐れも!
小田原市のホームページにはサイカチの木が植えられていたからという話しか載っていない。ホームページにサイカチの木がと載っているのに、「さいかち通りに1本もサイカチの木がないのはおかしいと」いう投書によりさいかち通りに2本,サイカチの木を保健所跡地に植えました。植物図鑑にはサイカチ(梍、皁莢)の漢字に西海士、西海子という表記もある
2.大久保家の藩士たちが西海から来たという由来を残すために西海の子孫たちという意味で名付けたという説
江戸時代の第二期大久保の時代に大久保氏が九州から戻って来たときに、一緒に藩士を連れて戻りました。貞享3年大久保忠朝小田原へ入封する。そのとき稲葉氏より大久保氏への引き継ぎ文書に西海子通り安西町一丁目より大久保家家臣を住まわせたという記述が初めて出てくる。それまではさいかちどおりの記述は、さいかち馬場というのが、小田原城絵図の加藤図というのに出てくる。 (現存する最古の小田原城絵図といわれる)
大久保忠朝は九州の西海地方からの転封だったので、西海の子孫という意味で西海子という字をさいかちに当てたという話がある。西海出身の藩士の家にはその話が伝わっているという。複数のお宅からその話を聞いたので、文書ではまだ見つかっていないが、その説にはロマンが感じられる。
(城南商店街ホームページより)