蔦屋重三郎について記事を書くにあたって必ず触れることになる「吉原」。近隣である東浅草にて私が思うことを一度書いておきたいと思いました。
先日開かれた「大吉原展」。見に行った後にネットでの賛否両論があったのを知り(否の方が大きかった?今までタブー視されていたことで今回が初の展覧会だったそうです)、その反響の大きさを感じました。賛否は展覧会を見た私の印象とも全く重なるものであり、苦界の中での女性達の境遇と、その中で懸命に生き抜き人々が詠嘆する程の江戸文化を花開かせた姿。両方の印象が渾然となるところがこの展覧会の肝なのではと感じました。
吉原を見る視点として、
・身売りをしなくてはならない当時の社会、家庭、経済的な事情
・女性達の境遇(20代で亡くなるものも多かったとのこと)
・女性を搾取する存在(女衒、楼主、女性を買う客)
・絢爛豪華なる江戸文化の担い手としての吉原(苦界に生きる者の矜持、反骨精神)
・支え合いもあったのでは(当時の江戸の人は遊女を「困窮する家族を救う親孝行の女」と蔑視することがなかった、共に楼内で働く者との関係、身請けなど買う客ともある意味であったのでは フランキー堺の映画「幕末太陽傳」を見ると楼内の感じがよくわかります)
などが思い浮かびます。
蔦屋重三郎が関わった戯作の精神は「茶、茶化すこと」、上に挙げたような「人生、感傷」には決して触れず、あっけらかんとした明るい笑いで無用の文学として吉原を描く。粋であり、ひとつのやさしさだと感じます。でも野暮とは思いますが私は賛否に偏らずに上に書いたような感傷を一つ一つ忘れないようにしたい、それは我々の一生も同じく、思うようにならないことに翻弄されながら何かを前に見て生きていかなければならないものと思うからです。
吉原の事を考えるのは、思いやりを持つことと生きることについて考えることに尽きるのではないかと思います。日蓮聖人は「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱えいさせたまえ」苦しいことも悲しいこともありのままに受け止め一生懸命生きることがお題目を唱えることなんだと申されます。その言葉は蔦屋重三郎の苦労と活躍に彩られる波瀾万丈の生涯に触れることにも通じています。
来年蔦屋重三郎がNHK大河ドラマに取り上げられるのは江戸浅草吉原に生きる人々の「悲喜交々」を描くNHKの勇気ある試みではないかと思います。賛否に晒されることもあろうかと思いますが、その分深みがある良いドラマになりますことを心より楽しみにしております。