今回は、蔦屋家の遺骨と正法寺の旧納骨堂・現在の萬霊塔での供養について。
1、正法寺にかつてあった納骨堂。関東大震災により外墓地が被災したのち、この納骨堂を建てて供養をしていた。東京大空襲時には唯一焼け残った。
写真が昔の本堂と納骨堂。入り口から入ってすぐのところにお経をあげる場所(礼盤)があり、それを囲むように1階2階と檀家さんの遺骨が仏壇のような形で安置されていました(私が物心ついた頃は正法寺にはまだ外墓地がなく、震災・空襲後に檀信徒のお骨は全てここに納められていた)
2、納骨堂の入り口にあった礼盤(お経をあげる場所)の下に、このお寺が被災するたびに歴代がかき集め守ってきたお骨が納められていた
平成6年に正法寺をビルに建て直すときに、私の父、先代住職に「手伝え」と納骨堂に呼ばれました。御宝前を一つ一つ片付けて最後に礼盤の畳を外すとその下に鉄の扉が。鍵を開けて錆びついて固まった扉を力いっぱい開けると、その中に大量のお骨が収まっていました。「これが幾度の災害を通してうちのお寺が守ってきた一番大事な仏様だ」初めてそのことを聞いた私は、なぜ礼盤の高さがやけに高かったのか、なぜ父がそこで一所懸命お経をあげていたのかが初めてわかりました。掲げてあったご本尊の裏にはお祖父さん先先代が作った「みなさん信心のご功徳をお積み下さい」と金地で掘られた見上げるような大きな板札があったのも思い出されます。
そして2人でお骨を丁寧に取り出して、蔦重の墓碑の隣にある無縁塔「萬霊塔」に移し変えました。今でも忘れられないのが、そのたくさんのお骨の量と一つ一つがかけらのように細かく土にまみれたようなお骨の様子でした。「必死になって集めたんだろうな」ということが実感として手に伝わったこと、手伝っておいて本当に良かったといつも思い返し、先代に感謝しています。
3、納骨堂にあった古いお骨は現在蔦屋重三郎墓碑の隣に建てられた「萬霊塔」に納められている。「正法寺が開山から供養している全ての仏様、蔦屋家の遺骨もこの中にあるんだ」との思いで供養を続けている
ここは正法寺にとってとても大事な供養塔であり、私は毎朝のお勤めをここから始めています。先代住職が蔦屋重三郎家の墓碑をこの萬霊塔と合わせて建てたことには大事な意味があるのだと思います。小さなかけらばかりの土にまみれたたくさんのお骨を思い出すたびに、あれだけのお骨をかき集めた歴代の必死な気持ちを感じ、「ここに蔦屋重三郎家のお骨も入っていて欲しい」と強く思います。
フランキー堺さんが映画「写楽」を作った時に篠田正浩監督と2人で蔦屋の供養と映画のヒット祈願でお寺に来て、法要ご祈祷の後うちの父と食事歓談をされていったことがありました。その後に刊行された「写楽道行」という小説に先代住職が登場し「蔦屋重三郎のお骨はこの納骨堂の下に眠ってるよ」と伝えたような場面があります。3人でお酒を飲みながらそんな話をしたのかな、うちの先代もそう思っていたんだと改めて思いました。
3回にわたって「蔦屋重三郎と正法寺」として書かせていただきました。いずれの話も形として残っているものではありませんが、周辺にある史料やお寺の中で伝え聞いてきたこと、それら一つ一つをまとめてみると、そこにこのお寺の歴史、蔦屋重三郎との関わりが見えてくるように思ってもらえたら有り難く存じます。駄文につき失礼しました、ご覧いただきありがとうございます。