大河ドラマが決まってよりこの一年、正法寺に残らなかった蔦屋重三郎のことを少しでも見つけ出すことができないかと図書館などで色々調べ物をしてきました。その中で現時点で分かったことをまとめて、3回に分けて書きたいと思います。(①檀家としての蔦屋家 ②蔦屋家墓碑について ③蔦屋家遺骨と当山の萬霊塔)
今回はお檀家としての蔦屋(喜多川)家について。
1、正法寺の檀家であり、歴代・親族が葬られ埋葬されている
典拠 → 「東都本化道場記」(蓮翁 著 天保11年1840年 御府内法華寺院の詳細を記したもの)正法寺の記述のうち「蔦唐丸墓あり 喜多川氏名柯理称重三郎」とある。他多数の資料あり。
2、蔦重は寛政9年(1797年)5月6日に亡くなる。その翌日5月7日に正法寺にて葬儀が行われ大田南畝が参列している
典拠 → 大田南畝「会計私記」(備忘記、日記のようなもの)の五月七日の記に「帰路、会 耕○堂葬 于山谷 正法寺」とある。
亡くなった翌日のお寺での葬儀、どんなお弔いだったのだろうと思いを巡らせます。
3、蔦屋重三郎の親族と、版元蔦屋重三郎を継いだ歴代とその親族が葬られている
典拠 → 正法寺墓碑より 以下の14名の法号記載がある。
(上段右より)
・實翁浄如信士 明和四年九月二十九日
・紅屋妙葉信女 明和二年八月二十日
・桃岸仙渓居士 天明六年二月九日
・大岩妙屋信女 天明六年九月八日
桃岸仙渓居士が実父ではとの推論資料あり。そこから考えると、私は實翁〜紅屋〜の二人は養子に入った喜多川家叔父夫婦、桃岸〜大岩〜の二人は実父と義母(後添え)ではないかと(あくまでも個人的にですが)考えています。
・幽玄院義山日盛信士 寛政九年五月六日 蔦屋重三郎
・○○院妙松日秀信女 寛政四年十月二十六日 蔦屋重三郎実母
・蓮花院妙體日實信女 寛政十一年九月二十四日 不明
(下段右より)
・錬心院妙貞日義信女 文化八年十月十八日 蔦屋重三郎妻 おてい
・勇山院松樹日行信士 天保四年五月二十六日 二代目蔦屋重三郎 番頭勇介
・勇祥院妙山日樹信女 天保十二年十二月六日 二代目蔦屋重三郎母
・勇言院妙念日化信女 天保五年十一月二十四日 二代目蔦屋重三郎妻
・壽徳院妙珠日實信尼 徳治十二年一月二十六日 五代目蔦屋重三郎母(四代目の娘)
・得法院志雲日○信士 弘化元年九月六日 不明
・○心院義覚日慈信士 文久元年十月一日 四代目蔦谷重三郎
以上が、正法寺蔦谷家墓碑に記載の法号です。ここから以下のようなことが考えられます。
◎文字の欠けや没年の順番、年号の違い(徳治は明治の間違い?)があるのと、蔦屋家歴代に関する資料(「浮世絵界 昭和16年8月号」木村捨三著、「蔦屋重三郎」鈴木俊幸著、「探訪 蔦屋重三郎」倉本初夫著など)との細かい違いも見受けられます。正法寺の過去帳が被災で失われてしまったこと、資料が主に昭和初期頃に正法寺を訪れ、過去帳の閲覧をもとに聞き書きをしたことに起因するのではないかと思います。
◎初代蔦屋重三郎の直接の親族だけでなく、二代目以下「版元蔦重」を継いだ者達の供養が正法寺で続けられていたことがわかります。
◎「遊侠伝」笹川臨風 著 明治34年10月 という本に以下の記述あり。
「正法寺となん呼べる毘沙門天を祀れる寺院ありける。書賈蔦屋重三郎の墓は即ち此にあり。其代々の墓碑は観美にして傍に碑けつを樹てたり。〜今猶香華を絶たずして清らかなり。其代々の墓なるものを見るに嘉永年間四代目蔦屋重三郎の名を刻すれば、地本問屋として通油町に其を存したるも遠からさるべく、今猶八丁堀に石屋芳兵衛なる富豪ありて月一回必ず此に賽すと聞けば蔦屋なるもの余栄ありと云ふべし。」
正法寺という寺に蔦屋重三郎代々の立派な墓があり、今もお参りが絶えず蔦重の名声は大したものだなあ〜と書いてあります。ここにある「八丁堀に石屋芳兵衛なる富豪」が「壽徳院妙珠日實信尼」の夫松屋芳兵衛であり、月一必ずお参りとあるのもなるほどと感ぜられます。
以上、蔦屋家の供養がどのように行われていたのか、見つかった資料をもとにまとめてみました。次回は正法寺の蔦屋家墓碑、碑石について申し上げたいと思います。