妙堅寺は大正8年、身延山竹之坊住職だった佐野尭善師に師事する平野イネ氏を開基とする。
平野氏は頓化(とんけし:現在の釧路市寿町一帯)の地に来て龍神堂を建立。法性龍神を守護神として、病気平癒の祈願などを行い多くの信者を集める、しかし諸事情により一年余りにして平静の地に転居することとなる。
それに伴い、御堂を布教山法華寺第三世住職、田原是諦師に譲渡し、法華寺頓化説教所として信徒の教化に当たる。
大正15年には室伏見正師を派遣し、一層の信徒教化に励むも昭和8年に厚岸町法華寺住職として赴任することとなり、同年秋に清野賢寳師を派遣し教化の継続をする。しかしながら清野師は老齢のため昭和11年に引退し、管理者不在の状態となる。
その後、昭和15年に稲垣見祐師が派遣され、昭和17年11月26日には妙法結社を設立。昭和25年10月5日に寺号公称を達成する。
昭和47年7月堂宇の全面改築を成し遂げた見祐師は、昭和49年に引退。稲垣見澄師が第三世を継承する。
見澄師は未信徒の教化に尽力し、檀信徒の増加を見る。また平成11年には「日蓮大聖人立教開宗750年」の慶讃事業として、現在の地(釧路市北園)に全面移転新築する。
この大事業を成し遂げた見澄師は平成15年に勇退。それを受けて現住職である稲垣見穂師が第四世を継承し現在に至る。