当山沿革

戦前より塩竈市香津町の住宅(初代住職の兄、日野義一宅)に三仏講という法華経信仰の集まりがあった。
そこには、羽生田先生という方が法華経を解説し方々から人が集まった。
第二次世界大戦中、香津町が焼け野原になる可能性が高まり、現顕妙寺本堂より南の地に防空壕を掘り、そこへ御本尊と日蓮聖人像を移し、法華経・御題目信仰を始めた。
戦後、その防空壕の北西すぐそばの土地に初代住職(日野義次、後に出家し恵台と改名)の父(日野栄吉、利府で初めて梨栽培を始めた人の子孫)が、利府町から毎日リヤカーで石を運び積み、六畳間二部屋ほどの御宝前を作った。
そこで太鼓を叩いて御題目信仰をしていた。
そこへ仙台 智遠寺 泰了院日寛 梅森寛悦上人に回向や祈祷をしにきて頂き、御導き頂く。
毎月1日、8日、15日を月例の御講日と定め、だんだんと多くの人が集まったという。
「講中の中からも僧侶を出そう」との声が上がり、後の初代住職となる日野義次が推挙され、梅森寛悦上人に師事し修行する。
昭和32年、42歳で日蓮宗大荒行(身延行堂)初行、立て続けに5回入行するも成満した。
講中で、「お寺を作ろう」と発心し、現顕妙寺檀信徒会館入口付近に四畳半の御宝前を設け移転した。
大工である日野義春(初代住職の弟)が、現顕妙寺檀信徒会館広間付近に20畳ほどの簡素な本堂を建てた。
昭和37年に顕妙教会と称した。
昭和50年11月3日、現顕妙寺本堂が完成し、
塩竈市より「教会」から「寺」にしてはどうかと提案があり、顕妙寺と寺号公称し、宗教法人を取得した。

昭和62年 子安子育観世音菩薩を勧請・観音堂完成
平成4年 境内墓地新規造営
平成11年8月18日 初代住職遷化(数89歳)
平成12年 境内地拡張
平成13年4月 庫裡完成
平成14年4月7日 顕妙寺檀信徒会館完成
令和2年10月14日 稲荷堂竣工
以上

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