「生活の中の幸と不幸」 1990年に書いたものです

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 「生活の中の幸と不幸」

    大和高田市  妙法寺内 吉田龍永

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 毎日の生活の中で色々な事が起こる、楽しい事も有れば嫌な事も有る、これは誰もが経験している事でしょう。
 楽しい事はいくつ起こってもかまいませんが嫌な事はなるべく少なく、出来る事ならそんなものとは無縁で過ごせたらどれだけよい事でしょう。

 私のお寺には、お檀家さんに限らず色々な相談にこられます、色々な相談をお聞きしているうちにある事に気がつきました。家の中で余りよく無い事がいくつか続く、そうなると多くの方が「先祖の因縁でこんなに悪い事が続くのでしょうか」と言われるのです。 しかし、このような方に限ってよい事が有っても決して「ご先祖のおかげでうまく行きました」とはおっしゃいません。悪い事は先祖や諸々の悪霊のせいであって自分が原因ではない、よい事は自分が努力したからという考えでおられるようです。
 また、「一生懸命信仰をしているのに、なぜ嫌な事が起こるのはなぜですか」とおっしゃる方もおられます。
 私たちは、平穏な毎日が当たり前で嫌な事が起こる生活は不自然な事のように思いがちです。
御経の中にこんなお話しがあります。
 ある家に、一人の美しい女が、着飾って訪ねて来た。その家の主人が、「どなたでしょうか。」と尋ねるとその女は、「私は人に幸福を与える福の神である。」と答た。主人は喜んで、その女を 家に上げ手厚くもてなした。
 するとすぐ後から、粗末なみなりをした醜い女が入ってきた。主人がだれであるかと尋ねると、貧乏神であると答えた。主人は驚いてその女を追い出そうとした。すると女は、「先ほどの福の神は私の姉である。私たち姉妹はいつも離れた事はないのであるから、私を追い出せば姉もいないことになるのだ。」と主人に告げ、彼女が去るとやは り美しい福の神の姿も消えうせた。
 生あれば死があり幸いがあれば災いがある。善い事があれば悪い事がある。人はこのことを知らなければならない。愚かな者はただいたずらに、災いをきらって幸いだけを求めるが、道を求める者は、この二つともに越えて、そのいずれにも執着 してはならない。(仏教伝導協会版 仏教聖典)
仏教を、法華経を信心する者は特にこの事に目を向けなければならないでしょう。人間の煩悩の中に執着(しゅうじゃく)というのがあります、物事にこだわり正しい判断を見失ってしまうことを言いますが、良い事も、悪い事もその事ばかりにこだわらずに生活をする、くよくよとした心でいつまでも過ごさない、悪い事があってもそれに立ち向かっていく強い心を持つ、強い心を作っていく、という事が信心の上で大切です。

 さらに、私たち法華経を信心する者が心しておかなければならないのは、少し嫌な事、不幸な事が有っても決して法華経以外の教えにすがらず、法華経を捨てないということが大切です。最近は新しい宗教が色々と有って、物珍しさも手伝ってか法華経とご縁がありながら他の宗教を熱心に信仰される方もいらっしゃるとお聞きします
 日蓮聖人は開目抄という御文章の中で
 「善につけ、悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」
といわれており、どんな理由が有っても法華経を捨ててはいけないと教えられております。生活の中ででの小苦の為に法華経を捨て大苦を受ける事のないようしっかりとした信心を致しましょう。
 毎日の生活の中で色々なことが、幸も不幸も起こってきますがそれらを一つ一つ真正面から受けとめ、心の迷いなく過ごすということが大切なことです。           

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