寒修行 賢治と、木偶。艱難(かんなん)は希望へと

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平成25年1月21日、豊能日青会による寒修行が始まり、今年は豊中市内を約3時間ほどかけて唱題行脚しました。
一昨年までは能勢の町内(19ヵ寺)を回っておりましたが、昨年より豊能南部の御寺院様(6ヵ寺)を順次お参りしております。
「寒行」という言葉に私が先ず頭に思い浮かべるのは、中学生の頃に出会った「宮沢賢治」です。花巻農学校の先生になった頃に、賢治は毎年冬になると寒行を行っていたそうです。その出で立ちが、絣(かすり)の着物に黒マントで〝南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経〟と唱えながら歩いていたそうで、そんな賢治の寒行の姿を地元で理解する人はほとんどいなかったようです。有名な『雨にも負けず…』は、そんな賢治の晩年の作品で、賢治が病床に伏してコツコツと書き付けた「最後の手帳」の中に登場します。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 (中略)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
<a  data-cke-saved-href="/Attraction_Review-g1059459-d1424339-Reviews-Megane_Bridge-Tono_Iwate_Prefecture_Tohoku.html">めがね橋</a>: href="/Attraction_Review-g1059459-d1424339-Reviews-Megane_Bridge-Tono_Iwate_Prefecture_Tohoku.html">めがね橋</a>: 写真
めがね橋 (トリップアドバイザー提供)
当時の私には、この「デクノボーになりたい。」という気持ちがさっぱり分かりませんでした。「デクノボー」という譬えですが、文字通り「木偶(でく)」とは人形のことで、「人形のように役に立たない」者のことを言います。決して良い意味の言葉ではありません。賢治については、もう数多くの識者や学者の方が研究されていらっしゃいますから、色々と読み漁ればあちこちにヒントが示されていたのですが、結局掘り下げて調べることもなく、そんな疑問も置き去りにしておりました。
 
年月は流れ、私は大学を卒業した後実家には戻らず、専門学校へ進み、関東の医療機関のリハビリ科で働くようになりました。昔抱いた賢治への疑問も、日々の喧噪の中で生活する内に忘れかけていた頃、一人の患者さんの担当になりました。
その患者さんは『筋委縮性側索硬化症』、俗に『アミトロ』と呼ばれる神経難病で、神経麻痺が全身にわたり、最終的には呼吸筋が侵されて死に至る病気に罹患されていました。
そして、それら大半の患者さんが、必ず突き当たる大きな現実があります。次第に呼吸活動が困難になり、「レスピレーター(人工呼吸器)」の助けを借りなければならなくなった時です。胸骨からやや上の方を気管切開し、自力呼吸から機械による強制的な呼吸活動に変わります。そして、言葉さえも奪われます。無論、植物状態ではありませんから、意識が清明な状態で装着される訳です。
 
ご本人は、呼吸器の装着を強く拒否していらっしゃいました。ずっと彼女に付き添っていらっしゃった介護の方から後日伺ったのですが、リハビリの度に私に仰っていた通りの言葉、「息をするのも機械任せじゃ…こんなデクノボウ、生きてるだけじゃ仕方ないね。」と、ご家族に伝えられたようです。
その言葉に対してご主人は、「おまえが木偶と言うのならそれでもいい。毎日ここに居てくれたら、それでいい。それが家族の支えになっているんだから。」とお答えになったそうです。
 
その言葉を最初に伺った時は、その言葉の力に圧倒されるだけでしたが、暫くして私なりに考えてみましたら、ずっと心に引っ掛かっていた“つかえ”が少し取れたような気持ちになりました。
例えば、殊に人間社会においては、目に見える物質的支援や貢献ばかりを要求されたり、マスコミに取り上げられたりします。何か形ある物でなければ納得されず、或いは例え差し出しても、相手側の一方的な主観で、相手が提示した物と同等以上の価値と見なされなければ非難されたりもします。あの9.11事件の後、日本に対して当時のブッシュ政権は「Show the flag!」と発言したことで、日本政府は右往左往しました。
有能な閣僚は最優先に国益を考え、民は豊かさを求めます。もうそれは、人間が文明の発展と共に歩いた長い長い歴史の中で、争いと淘汰を繰返してきた行く末ですから、今更「我欲を洗い流す」ことを説いてもどうなるものでもないのかもしれません。
しかし、「法華経の信仰は“智”ではなく“信”である。“頭”ではなく“心”である。」(森恵遠猊下著『法華経講讃』より)というお言葉の通り、頭で理屈ばかりを理解しようとせず、いつも澄んだ心を持ち、心一杯に染みわたる無償の仁愛に触れた時、温かい光のようなデクノボーの心境に、少しは近づけるのかな…と、その時の私なりの解釈で理解し、心がフワッと軽くなったことを覚えています。
そして今、私達こそが愛慈悲を以って人々を常に敬い、驕慢な態度を自ら戒めなければならないことを、深く心に刻んでいます。
 
その後に働いていた病院や福祉施設では、「こんな役立たずの老いぼれは、早くお迎えが来た方がいい!」などと仰るお年寄りがいらっしゃいました。そんな時、私はあの言葉を思い出して、「この年まで生きて来られたのだから、役に立つことは沢山やって来られたのでしょう。そんな貴方の振る舞いを見ていた方が、きっと代わりにやってくれていますよ。もう、無理に役に立とうとしなくても構わないじゃないですか。それより私たちに、今までの貴重な経験をもっと聞かせて下さい。」
そう、話しております。
追記
レスピレーターの装着を決意された彼女は、その後も若かった私に、病床より常に影響を与え続け、薪尽きるまで私達の灯でいてくれた。
そして彼女は、聖書のこの言葉を我が灯として、家族の支えとなりながら最後まで生き抜いてみせた。
『艱難が忍耐を生み出し、 忍耐が練達を生み出し、 練達が希望を生み出す。 この希望は失望に終わることがない。』【新約聖書・ローマ人への手紙より】

画像解説
「宮守川橋梁」は国道283号線と宮守川をまたぐJR釜石線(銀河ドリームライン)の橋梁で「めがね橋」の愛称で親しまれています。
半円アーチ状の橋脚は高さ20m、全長107m。岩手軽便鉄道の花巻~仙人峠間が開通した大正4年に竣工し、昭和初期に現在のかたちに改修されました。5連アーチが連なる橋梁は建設当時の鉄道土木技術の素晴らしさを伝えており、「土木学会選奨土木遺産」「近代化産業遺産」に認定されています。
またJR釜石線の前身である「岩手軽便鉄道」をモデルに、宮沢賢治は名作「銀河鉄道の夜」を執筆したといわれています。夜間、ライトアップされためがね橋は、ジョバンニや友人のカムパネルラが登場する童話を連想させ、訪れる人を幻想世界へと誘います。
最近では「恋人の聖地」にも認定され注目を集めています。
<遠野市公式Webより引用>
 

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