モンスター ~Monster~

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私達の先祖は、見えない存在を見えるものとして捉えて来ました。

これは日本人の『見立て』の文化に関わって来ます。『見立て』とはある物を別の物として見て取ることで、日本庭園、日本料理、茶道、盆栽、浮世絵等々、日本のあらゆるところで見て取ることが出来ます。また、巨大な山を神聖なものとして、自然崇拝・信仰の対象としたのが山岳信仰ですが、富士信仰などは富士山を神に見立てた山岳信仰であり、起源は縄文時代にまで遡ります。浅間信仰(富士浅間信仰)などは有名です。
この様に我々日本人には、見えないものに対する“畏敬の念”、或いは“畏怖の念”といった心のあり方がありました。それが科学的、合理的観念から物事を判断する様になった人間社会では、目に見えないものは軽んじられる傾向にあります。仏教ではそんな風潮に対して、「見えないものこそが、大切なんだよ。」と説くのですが、高度な文明社会においては、祖父母の時代の考え方に回帰することは容易くないようです。
 
ひと昔前には、一家の家長が白いものを黒と言えば、それは“黒”でした。それがいくら頭ごなしでも強引でも、それぞれの家庭の中には規律があり、暗黙の了解があり、子供たちは親の躾が身体中に刷り込まれていて、自然の行いの様に身に付いていました。しきたりなどに対しても、理屈を度外視して受け入れていました。それは家族の振る舞いを真似することで“自分もその一員である”ことを認めてもらいたい一心でもあったでしょうし、祖父母から「疎かにすると罰(バチ)が当たるよ!」などと、心理的な“恐怖”を植え付けられていたからでもあります。そして何より、父母、祖父母の言う通りにしていれば間違いがないんだという信頼関係がありました。
子ども心には、ただ家族が頼り。仏も神も、“モンスター”にほかならなかったのです。
 
一方で資本主義社会の仕組みは、お金で価値を流通させ、安価で良質なものが市場を独占する。より高い価値をより多く流通できれば、資本が膨らみ更に高い価値を流通できる。一見理想的に見えますが、果たしてどうでしょう。潤沢な資本を元に科学的研究開発が進み、今までは未知なる世界、神秘のベールで覆われていたフィールドが、高度な技術力により解明されています。すると今度は、目に見えるあらゆるものに対して、人間にとって都合の良いように実用化しようとします。更なる利潤(資本)を生むからです。人間が踏み入ることが“タブー”とされていた領域も曖昧になり、体の良い謳い文句を並べては商品べースに乗せようとします。遺伝子の組み換えも、その一つでしょう。最近、食の分野においても、『「モンスター食品」が世界を食いつくす!遺伝子組み換えテクノロジーがもたらす悪夢』という本が話題になっていますが、フランス映画『未来の食卓』のジャン=ポール・ジョー監督は、次のように述べています。
「原発も遺伝子組み換え作物(GMO)も、第二次世界大戦で使われた戦争のための技術から生まれた。原発は原爆から、GMOは毒ガスから(毒ガスをもとに除草剤が作られ、それに耐える植物が遺伝子組み換えで作られた)。どちらも自然を支配しようとする技術であり、人や環境に取り返しのつかない被害を与える。」
「少欲知足」「衣食足りて礼節を知る」なんて言葉も、合理的資本主義社会では障壁にしかならないのでしょうか。果たして、“原発”と一緒で動き続けなければならない、消費を続けなければならない仕組みがそこにはあるのです。
また、現代の高度な情報化社会においては、得てして情報が錯綜して“噂がひとり歩き”したり、或いは人間の頭の方が処理し切れなくなって“疑心暗鬼”に陥るといった皮肉な状況にもなります。放射能についてもそうですが、今や普通の主婦でさえ“ガイガー・カウンター”(Geiger counter)を持ち歩く時代なのですから。
 
「マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来た。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にした。今や私たちがグローバリゼーションをコントロールしているのではなくて、グローバリゼーションが私たちをコントロールしている。」とウルグアイの大統領が言われる様に、我欲にまみれた社会構造こそが、様々な“モンスター”を創り出しているのではないでしょうか。
ただ私が気になるのは、何もかもを“モンスター”で片付けると、何だか他人事に聞こえませんか。規格外の突然変異(ミュータント)でしかないと…
 
“モンスター”は、私達誰しもの心の中に存在するものです。
ですから、それをコントロールする理性と、豊かな心を育むために宗教はあるのではないですか。

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