日蓮聖人御法難会

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 正嘉元年(1257)のころから今年文応元年(1260)にいたる四箇年の間に、大地震や大風などの天変地異が続き、飢饉が起こり、疫病が流行して、災難が天下に満ち、広く地上にはびこっています。そのために牛や馬はいたるところで死んでおり、骸骨は路上に散乱して目もあてられず、すでに大半の人びとが死に絶えて、この悲惨な状態を悲しまない者は一人もおりませんでした。
 そこで、日蓮聖人はお考えになり、末法の世こそ、法華経を信心の柱としなければいけないとされ、文応元年 時の執権方丈時頼に、立正安国論を幕府に奏上され、天変地異や疫病は、法然の念仏宗や禅宗などの邪宗を信仰するからであるとし、法華経を信じなければ、「他国の侵攻も受ける」と、批判されます。それからの人生は日蓮聖人、法難の御一生で御座いました。殊更に「松ヶ谷法難」「伊豆流罪」「小松原法難」「龍口法難」を四大法難とされ、ご自身も大難四ヶ度、小難数知れずとされ、法難の御人生を送られました。しかしながら、日蓮聖人は、屈することなく、法難の迫害を受ける事は、法華経「勧持品第13」に説かれている事。迫害を受ける度に真実に法華経を末法の世に弘めているという実感をされました。また、佐渡法難の折には、自らを上行菩薩の生まれ変わりと自覚され、日蓮宗のお曼荼羅を初めて描かれました。
 当山では、その徳を讃えて、毎年5月には日蓮聖人の御報恩法要として、法難会を勤修して、共に日蓮聖人が歩まれた偉大な功績に対して報恩感謝の誠を捧げております。

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