山科檀林で学んだ、優陀那日輝和上

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優陀那日輝和上(うだなにちきわじょう)は、現代の日蓮宗の教学を築き上げ、時代に即した僧侶を育てた人物で、日蓮宗の関係の人ならば誰でも知っている有名人です。
そんな日輝上人は、ここ山科檀林で学んでられたのです。
 山科檀林の古資料によると、文化16年(1819)~文政9年(1826)の約7年間、山科檀林にて修行をされていました。詳しく見ていきますと、
文政7年(1824)に文頭に進まれ、
文政9年(1826)4月15日に、二枚目に進まれます。
同年8月7日に看板引きとありますから、山科檀林を退檀、即ち去られたことが分かります。
 その後、故郷の石川県金沢に戻られ、立像寺内に充洽園(じゅうごうえん)を開き、教学の研究と後進の育成につとめられました。
 当時の、檀林は天台学に重きを置き、日蓮宗学が十分ではなかったと言われております。山科檀林も例外ではありません。日輝上人は、日蓮宗学の衰微を嘆か れ、幕末の時代に即応するため、独自の教学を築きあげ、明治の激動の時代を乗り切れる有能な門下を育てられたのです。
 こう考えますと、少なからず山科檀林は、現代の日蓮宗に影響を与えているんだなと感じます。さて、時は移り、現代の世情や、日蓮宗の状況を見られた時、日輝上人はどう思われるか…。今一度、改革の時が来ているのではないかと、深く考えさせられます。

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