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龍華 大本山 妙顯寺

【Ryuge Myokenji】

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「死に方」

 
 2月3日も過ぎまして、旧暦ではようやく新年になりました。
明けましておめでとうございます。
本年もぼちぼちとブログを更新していきます。
 
今月は前々回のブログの続き。
「死に方」について

前々回では「死」というテーマで、人が亡くなるときには真っ暗になるのではなくて、まばゆい光の中で亡くなっていくというお話でした。
しかしながら、死ぬまでの心構えができていないとそうはならないのです。
 
「死」というものは誰しもが怖いことです。生物の本能は「生きる」ことにあるので、これは当然のことです。「もし自分が明日死ぬ運命だと知ってしまったら・・・」、なかなか人はそれを受け入れることはできないでしょう。
人は「生老病死」という誰も逃れられない「苦」を抱えて生きていきます。この世に生まれてから、肉体の「老い」や「病」によって私たちは苦しみます。
しかしながら、 【病によりて道心はおこり候なり という言葉があるようにこの「老い」や「病」があるからこそ私たちは「自分とは何か」と考えさせられ、「死」というものを受け入れられることもまた事実なのです。
一般的に年齢を重ねて高齢になるにつれて「死」という存在を受け入れている人が多いという研究結果があるのはこのためです。しかしながら、現在では、高齢になっても死の間際になっても「死」を受け入れられない人が段々と多くなってきています。
 
人が亡くなると、日本仏教ではまず「枕経」を行います。今現在では亡くなってから枕経を行っていますが、昔はそうではありませんでした。
亡くなる人が不安を抱えてなくならないように僧侶を枕辺に呼んでお経をあげることが本来の枕経なのです。昔は亡くなる前に行っていたのです。
しかもその際、亡くなる人の目の前には僧侶が立ち合い、家族や親族は目の前で立ち会わない形が主でした。
 
今では考えられない風習ですが、これは理にかなったことです。
なぜなら、死ぬ間際に家族や親族に会ってしまうと最後の最後にこの世に執着を生んでしまう恐れ があったからです。これから亡くなろうとするときに、例えば、かわいい孫の姿を見てしまうと、「ああ、もっと孫が成長した姿を見てみたいな〜」と思ったり、自分の息子がひどく泣き崩れている姿をみると「このまま自分が亡くなっても大丈夫かな」と不安にさせてしまいます。そのためにあえて第三者である僧侶を呼んでお経を読み、死者が無事に旅立てるように道を示したのです。
今では「生きている人」の方が大事であるという考えですから、受け入れられない考えかもしれません。
 
 延命治療の技術が発達して、自分の意志で死ぬことすらままならない時代になってきました。
私たちが普段旅に行くときは準備が必要なように、 「死」に向かうときも旅立つ準備が必要なのです。
人間が自然に死ぬときはいわば「餓死」状態になります。年がいくと食べ物があんまりのどを通らないのでは、身体が段々と亡くなる準備を始めているわけです。
「餓死」と聞くとすごく怖く聞こえるかもしれませんが、元気なときに感じる「食べたいのに食べれない」という状態ではなく、「もう何も食べたくない」状態になるのです。そうして何も食べない状態になると脳内にベータ・エンドルフィンなどの快感物質が出て心地よい状態になります。やがて、水の飲めなくなり、脱水状態になって、ぼんやりした状態のままあの世に旅立つのです。
 
自分はどんな「死に方」をしたいのか。
言い換えれば、自分はどう生きて、どう最後を迎えたいのか。
 
あらおし(惜)の命」という言葉がありますが、
自分の命のある限りまで精一杯生き続けること最も良い生き方ではないでしょうか。

【写真】
境内内(慶中稲荷前)に咲く白梅

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