もう一つの法要「懴悔」その2

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行道文庫さんが出されている日蓮宗の日蓮宗聖典(通称:黒本)を紹介します。
私も小さい頃から毎月読んでいたもので、内容が端的で、それでいて分かりやすく「懺悔文」として気に入っています。
その中の「最初の文」と「途中のたとえの文」を紹介します。

【原文】
夫れ懺悔は治病の妙薬。開運の秘法なり。
若し難病を平癒(なお)し。悪運を除かんと欲せば。すべからく懺悔すべし。
因果のことわりは。厳正(げんせい)にして犯し難し。
微罪も猶を悪報をまぬがれず。況んや不幸。不義。不正。不貞。不倫。背徳。忘恩の大罪に於いておや。
積もりて難病の因(もと)となり。あつまりて厄災の縁となる。
倩(つらつ)ら推(おも)うに。われ等(ら)無始よりこのかた。
無明の酒に酔いて。造るところの罪業。無量無辺なり。

【解説】
仏教は「自業自得」の世界です。良い事も悪い事も自分自身でしか積み重ねることはできません。
良い人、良い行動、良い環境に触れて、良き心を起こすことはできますが、他人が積み重ねた善行をそのまま頂くことはできないのです。
ですから、自らが良くなりたいと思いたいならば、まずは自らの行動を省み、懴悔しなさいと説きます。
すべての原因は自分自身の行動によって生み出されたものであり、「私」が「私」と思っている心やこの肉体もすべて自らの行動によって引き寄せられたものなのです。
仏教では「三世」という時間の捉え方をします。過去・現在・未来です。
過去に起こした原因は現在に結果として現れ、現在に起こした原因は未来に結果として現れるという考え方をします。
たとえこの世でオギャーと生まれて身に覚えのない報いでもそれは自分自身が忘れているだけで前世、前前世と過去を遡ればその原因が必ずあるはずなのです。
私達がこの世に生まれてこれたもの、この過去で積み上げてきたものから「必然」なのです。
仏教では「偶然」はありません。「偶然」とはただ私たちの眼には見えていないだけで、全ての物事は「必然」で成り立っています。
この見えないものやちからのことを私たちは「縁」というのです。
私達はこの世に生まれてくるの
しかし、それは果てしなく奇跡に近い「必然」なのです。なぜなら「私」が「私」と生まれてくること、今の家族、今の名前、今の環境で生まれてくることは今後二度ないのです。
だから、いのちは大事なのです。
脱線しました。
話を戻します。
つまり、過去に積もり積もったものが溢れて、まるで塵が積もるように、ましてや不義・不正・背徳などの大罪だったらなおさら心に積もる塵は大きいのです。
それがあふれた時、初めて私たちの心や身体に異変が生じるのです。
ですから、私たちは普段から心の掃除をしなければいけない。それが、懴悔なのですよとここで説いているのです。

【原文】
あるいは子となりて親を嘆かしめ。
或いは弟子となりて師をば軽んじ。
或いは従者(しもべ)となりて主に背き。
或いは夫となりて妻を虐(しいた)げ。
或いは妻となりて夫を尅(こく)し。 
 [→尅す=やっつける]
或いは姑(しゅうとめ)となりて嫁を憎み。
或いは嫁となりて姑の逆(さか)らい。
或いは兄弟姉妹牆(かき)にせめぎ。 
 [→牆にせめぐ=内輪喧嘩]
或いは恩を怨にて報 (かえ)し。
或いは他人(たにん)の不利を計り。
或いは約束を守らず。
或いは悪口。両舌。妄語。綺語をもてあそび。 
 [→両舌=2人の中を悪くさせること] 
 [→妄語=うそをつくこと]
 [→綺語=心にも思っていないことを言うこと]
或いは邪淫を行い。
 [→邪淫=道理を外れたみだらな行為や思うこと]
或いは乱暴を働き。
或いは殺生し。
或いは偸盗(ぬすみ)をなし。
或いは強情にして他(ひと)と和せず。
或いは冷酷にして他を愛せず。
或いは憍慢(きょうまん)にして他(ひと)を蔑(ないがし)ろにし。
 [→憍慢=おごりたかぶって、相手を見下すこと]
或いは執念深くして他を怨(あだ)み。
 [→怨む=恨み続ける]
或いは非道にして他(ひと)を苦しめ。
或いは強欲(ごうよく)にして物を惜(お)しむなど。
斯(か)くの如き悪業を集めて。己(おのれ)の骨となし肉となす。いかでか悪報をまぬがれんや。
これまた宿業のみにあらず。今世(このよ)に於いて更に罪を造れるに於いておや。

【解説】
毎日読んでいると、今日は悪口を言ったな、今日は意固地になってしまったななど
その日によって、響いてくる言葉が違うと思います。
また、自分にはこれが当てはまると思われる方もいるかと思います。
しかし、私たちが自覚していないだけでここに書いてある全てのことが「自分自身の心」にあるのです。
読んでいると嫌になるような汚い心。しかしながら、その汚い心も自分自身の心なのです。
それを自覚し、その心を受け入れて上げることがまさに懴悔なのです。
弱い自分、汚い自分、嫌な自分、それらを受け入れていくことで心が整理され、より良き心となるのです。
こういった諸々の良くない種によって私たちの骨となり、肉となっているのです。
それは宿業・過去からだけ作られるのでなく、私たちはこの世においてもさらなる汚れをためているんだよと
ここでは説いています。

以上、懺悔文の解説でした。

 

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