あるがままの人生3〜自我〜

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では、「自我」とはなんでしょうか?
 
フランスの哲学者デカルトの「我思う、故に我在り」という言葉の通り、
「すべての存在を疑うことはできるが、その疑いつつある自分というものの存在を疑うことはできない」と言いました。
 
仏教以前のインド哲学者はそれを「ア-トマン(我)」となづけ、
「常一主宰」(じょういちしゅさい)「単独でなりたち、常住で変化しない存在で、すべてのものを統率し支配しているものを支配しているもの」と名づけました。これは、自分というものに他者と対立する「個人我」が常に存在しているということです。
 
古来から「私」というものについて考えられてきました。
「私が〜したい」「私が〜する」という「私」というものを「自我」と言います。
 
この「自我」の中には前回述べた「生存欲」「生殖欲」「自由欲」が入っています。
 
・「生存欲」自分をながく存在させたい。持続させたい。
・「生殖欲」自分をひろく存在させたい。拡大させたい。
・「自由欲」自分を強く存在させたい。優越したい。
 
 動物には生存欲と生殖欲を持っていることは周知の事実です。人間はその上に「自由欲」を持っています。人間は生存欲も生殖欲も厳しい闘争に投げ込まれない限りでは、他者の生存・生殖を認めることができます。普段日常生活で問題となるのは、「自由欲」です。
 
欲望は人間の心の感情や意志に属しているもので、欲望の働きには理由がありません。
 
「なぜごはんよりパンが好きなの?」
「なぜその人が好きなの?」
「なぜその色が好きなの?」
 
という答えに理由はありません。私たちは一応言葉で説明することができますが、結局は「何となく好き」だからとしか言えないのです。この「理由がない」欲望は自分だけでなく他人も煩わしくさせ、悩ませますから「煩悩」と呼ぶのです。そして、その中で代表的な3つが「貪欲・瞋恚・愚痴」なのです。
 
 私たちは自我を保つためにあらゆるものを貪ります。これを「貪欲」といいます。そして、貪り欲するものに愛着を持ちます。この執着する心を「愚痴」といいます。さらに、貪欲し愛着しているものが自分のものにできるとさらにその上を求めますが、それが叶わない時には瞋りの心が燃え上がります。これを「瞋恚」といいます。
 
 この3つの性質は私たちは赤ん坊のころから死ぬまで持っています。
赤ん坊が母親のお乳をもとめるのは「貪欲」からなり、加減が分からず、吐くまで飲むのは「愚痴」であり、途中で授乳をやめると、怒って泣くのは「瞋恚」となります。人間は成長しても本質は変わらないのです。
 
この「生存欲=貪欲、生殖欲=愚痴、瞋恚=自由欲」が「自我」に統一された一人一人の人間で構成された世界が私たちの世界です。
 
多くの人はこの「欲望の充足」に喜びや人生の意義を見出そうとします。しかし、「欲望の充足」には「悲しみ」と「闘争」、「変化」が含まれています。
 
・「悲しみ」誰かが欲望を満たすとき誰かが手に入れられなくて悲しむ。
・「闘争」貪欲・愚痴・瞋恚の欲望が加速すれば、社会に闘争が巻き起こり、最終的には破壊につながります。
 
・「変化」欲望が満たされてその人が喜んだ場合、その人は永くその喜びを味わいたい、もっと強く味わいたいと思います。しかし、それは叶いません。喜びが大きれば大きいほど、悲しみも大きくなります。
 
「苦は楽の種」であると同時に「楽は苦の種」でもあるのです。
 
よくよく考えてみると、欲望は喜びをもたらすことより苦しみをもたらすことの方が多いかもしれません。
 
つづく

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