信濃川の西、稲穂が揺れるおだやかな風景に包まれている妙法寺。鎌倉時代末期の徳治2(1307)年、日蓮聖人による法華経の教えが広まっていなかった北陸の地に、初めて建てられた日蓮宗のお寺です。以来、越後に日蓮宗の教えを伝える法華経の拠点として、新潟県の日蓮宗寺院の中心的存在となっています。
標高約80mの村岡城趾に建つ本堂は、山城の跡地ならではの起伏ある地形と、豊かな緑にひっそりと守られています。門をひとつくぐるたびに下界の音が遠ざかり、気持ちが安らいでいくようです。
3つの門をくぐり苔むした階段を無心に上っているうちに、はるか高みへ。凛と伸びた杉の木々から落ちる木漏れ日と、苔むした燈籠にぐるりと囲まれます。地面は青々とした苔にふんわりと覆われ、本堂をはじめ諸堂は杉林に優しく抱かれています。全国の本山でも指折りの豊かな緑に包まれるうちに、気持ちが清浄になってゆくのを感じます。
妙法寺は日蓮聖人の一番弟子であり、「六老僧」とよばれる高僧の一人、日昭(にっしょう)上人により創立されました。日蓮聖人配流の間、鎌倉で布教を行っていた人物です。
その大きな支えとなったのが、鎌倉幕府在勤中、日昭上人の教えに触れて入信した風間信昭(のぶあき)公です。新田義貞の配下ともなって戦った戦国武将で、その名に日昭上人の「昭」の字をいただいています。北陸の地に法華経の教えを説くお寺がないことを嘆いた信昭公は、横浜市・名瀬(なぜ)に日昭上人が築いた妙法寺を、みずからの領地である村田の地に移します。日昭上人入滅の元享3(1323)年のことでした。その後、信昭公の弟が当山の第2世貫首を務め、実子が第3世を継いでいます。
創立当時は、現在の場所から歩いて10分ほどの距離に建つ現在の治歴寺のあたりが境内となっていましたが、のちに信昭公の舎弟である武将、村岡三郎公の居城のあった現在の地に移りました。その村岡城趾が境内となり、約2万坪もの広大な土地に、30分ほどのハイキングコースが整備されています。本堂からさらに30mほど登った頂上が、実際に戦場となった陣地です。もうひとつの目玉は、この地を自生地とする雪割草という花。真冬には雪が1mほどにも積もるというこの地で、淡い紫色の可憐な花が桜に先駆けて春の訪れを告げます。
今でこそそんな平和な風景を見せる妙法寺ですが、戦乱の世に産声を上げたのち、明治時代にも戦火に見舞われています。明治元年、戊辰戦争の際に兵士たちの根城として使われた歴史があるのです。敵方に使われないようにと兵たちが逃げる際に火を放ったため、黒門や赤門などを除き寺のほとんどが焼失してしまいました。少し離れた場所にあった七面堂は無事残り、保内郷(ほないごう)と呼ばれるこの地域の総鎮守として今も信仰され続けています。明治17年には本堂が再建され、平成期には各門の改修のほか、身延山と同じ品種の枝垂れ桜を植えるなどして、寺の景観は一新しました。
妙法寺は北陸の地で最も早く生まれた日蓮宗寺院ということもあり、地域の中心となって、さまざまな場面で人々に頼られる存在となっています。日本海側に2kmほど離れた久田(くった)地域にお寺が建てられる際も、当時の妙法寺貫首さまが代官への願い書を仲介したのだとか。久田には、日蓮聖人が佐渡に行かれる途中でお休みになった石と井戸があったという話が残っています。その霊跡を称えるために久田の人々はお寺を作りたいと考え、当時の妙法寺貫首さまに力を借りたのだそうです。日蓮聖人が鎌倉から佐渡に送られる際のルートはすべてが明らかになっておらず、柏崎から寺泊の間のルートは今もなお解明されていません。第64世の小林日元貫首は、周辺のお寺に所蔵されている史料を紐解いて、日蓮聖人の足跡を明らかにするため尽力されています。佐渡配流から750年が経とうとしている今、失われた鎖がこの地から次々と明らかになるかもしれません。
また、お寺の名前を冠し、大正2(1913)年に開業した「妙法寺駅」も、当時の貫首さまや末寺、檀信徒の協力で誘致して作られたものです。日蓮宗の寺院で唯一、寺名がJRの駅名になっています。2013年に開業100周年を迎えた今、駅から妙法寺までの道のりは、戦乱の世をみじんも感じさせない平和な田園風景に彩られています。昼夜を分たずいつも開かれた門は、700年の時を超えて深い雪と静かな緑に守られ、訪れる人を温かく迎え続けているのです。
「階段を上がって頭上に本堂が見えてくるこの参道は、数ある日蓮宗の本山の中でもなかなかの景色ではないかと感じています。地上からはるか高く見上げる風景に、当時の人々は身延山久遠寺の風景を思い出していたのではないでしょうか。
お寺は、門に入ったときの瞬間が勝負だと思っています。初めに矢来門、そこから上がると赤門があって、階段を上ると黒門。3つの門をくぐりながらこの風景に魅力を感じていただければ、お寺で聴くさまざまなことも自然と受け止めてもらえるのではないかと思うのです。
1月・6月・10月の御縁日に開催する七面宮大祭は、どなたにもおいでいただける行事です。4月には信昭公ゆかりの地をめぐるほかコンサートなどを楽しめる『妙法寺しだれ桜と信昭公祭り』、6月下旬にはホタル鑑賞の会も開いています。
近年は長岡市の図書館館長さんご協力のもと、日昭上人と風間信昭公の物語を紙芝居やDVDにしたり、お檀家さんの歌とピアノで越後線の歌のCDを作ったりもしています。少しでも目を向けてもらいたいという思いから、この寺と地域の歴史を伝える取り組みに関わってきました。
日蓮さまの教えに触れてきて思うことは、人間の協調性の大切さです。世界の都市で一番孤独を感じている人が多い場所は東京とも言われているそうですが、本山巡りをしている方々がここで出会い、とても楽しそうに話している姿を目にします。日蓮宗の根本教典である法華経では、人間はすべてお釈迦様の子供であると説かれています。現在の人類につながるホモサピエンスが反映したのも、群になって力を合わせることができたからこそだと思うのです。全国から御参りにみえる方々に少しでもよい体験をしていただけるよう、他のお寺とも協力しあって2021年の日蓮聖人の佐渡ご法難750年、そして2022年の日蓮聖人ご降誕800年を盛り上げていきたいと思っています」