寺報~正福寺だより《合掌》№117春彼岸号~

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寺報117号が出来上がりました、

今回は、御礼の言葉です。

「御礼の言葉」

師父・田中貞奬、顯法院日奬上人遷化に際し、檀信徒の皆様におかれましては、昭和六十三年正福寺住職就任より三十三年の長きにわたり大変お世話になり、心より感謝申し上げます。
師父は去る一月二十八日夜、普段通り過ごしていましたが、夕食中呼吸が苦しくなり、いつも通っている病院の夜間救急に電話をして、私が車を運転し、母と病院に向かいました。
病院の玄関口から母に支えられて救急診療の待合室に着き、私が父を抱え待合室の椅子に「座ろうね」と言った瞬間、何かがすうっと抜けて行くような感じがして、まともに椅子に座ることが出来ませんでした。
私はその時もう逝ってしまったと思ったのですが、かすかに脈があり診察室に運ばれました。すぐに心肺停止、心臓マッサージで少し心拍が戻ったのもわずかの時間、数分後死亡が確認されました。
持病の心房細動、いわゆる不整脈による、うっ血性心不全という診断でした。
直前まで元気に夕食を取っていて、突然の死ということで驚きましたが、今から思えば、父は自らの死を覚悟していたかのようでもありました。
正月、鹿児島にいる次男の実がコロナ禍で帰郷できないことを知った時、実が帰って来たらみんなの前で言っておきたいことがあるんだとか、二、三週間前、食事の前に苦しくなり、もう死んでしまうかもしれないなどと言っていたのです。
でも、母が「苦しかったらご飯半分残す?」と聞いたら「いや、全部食べる!」と言って元気に完食したり、亡くなる前日も眼の診察に行った帰り、天丼を食べていましたので、家族は父が耳が遠いのをいいことに「これじゃ当分大丈夫だね」と冗談を言ってしまっていたのです。
しかしながら、そのような日常の中で、父はいつも自分の死を覚悟して、死と向かい合っていたのだと思いました。
父は三十年間中学の英語の教師として勤め、五十四歳で当山の住職になり、このお寺を立派に改修、新築をして整え、この一大事業の中で檀信徒の皆さんと絆を深めてまいりました。
普段は自動車が大好きで若い頃から日産車を乗り継ぎ、日産プリンス、ブルーバード、スカイライン、グロリア、ローレル、と乗り継ぎ、私の弟の弘治は小学校の面談で親の職業欄に「父さんの仕事は車のお掃除」と書いたほどでした。何故か最後はトヨタのプログレでした。
父は昔ながらの四角い角ばった車、フェンダーミラーが好きで、今の流線型の車は嫌だといっていましたので、葬儀の霊柩車はボルボを選びました。
また、父は洗濯や炊事が好きで、自分で洗濯し、干し、米を研ぎ、炊いていました。ここのところ洗濯機・炊飯器が調子悪くなり買い換えましたが、新しい炊飯器で米を炊くことはありませんでした。通夜と葬儀の日の供膳は、私の妻の千代美が新しい炊飯器でお米を炊いてお供えしました。新しい洗濯機は亡くなってから届きました。
父の書斎に行ったら机の上のリチャードカールソンという人が書いた「小さいことにくよくよするな!」という本が置いてありました。父は至ってマイペースでそういう生き方を信条としていたと思います。
あまり堅苦しい所に出向くのが嫌いで、普段からあまりしゃべらなかったのですが、檀家さんからは、よく父の一言に救われましたとか、温かい言葉をかけてもらったことが忘れられない、と云われました。
私とは、師弟という関係より親子という関係が強く、さんざん私も我儘を言って来ましたが、最後の最後に私が抱えた腕で息を引き取り師匠として人生の最後を弟子に教えてくれました。
私も正直、こうありたい、と思いました。
私は僧侶になって約三十年経ちますが、初めて人の死ぬ瞬間を目の当たりにしました。
最後に自らの身を以て大切な事を教えてくれた師父に感謝し、しっかり師父の思いを継いでいきたいと思います。
昨今のコロナ禍の為、皆様には連絡が行き届かず不手際な点、多々ありましたことお詫び申し上げ、心より御礼申し上げます。
皆様大変ありがとうございました。            
<住職・田中貞真>

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