だんしんきょう 平成27年 10月号

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全国檀信徒協議会副会長
相澤弥一郎 氏

~人を観て法を説け~
 
 私は旧い家であったこともあり、幼少期から法事に連れられることが多く、門前の小僧のごとく、法要がどのように始まってどのように終わるのか、字はわからないが音で覚えていくような、比較にはならないが寺院の子女のような環境にあった。
 実のところ、最近までいくら総代であると言っても、実務的に、歴代、家の当主が務めるものである、という程度の認識でしかなく、私自身が信徒とはいえ、見よう見まねの門前の小僧でしかなかった。私にとって馴染みのなかった言葉に「拝む」というものがある。ただひたすら神仏に対して手をあわせる。幼き頃に先代や叔父、叔母が、仏壇に向かって何やら真剣に「合掌」していたことが思い出された。
 これまで若輩の在家にしては多くの法要に接してきたが、全てが僧侶任せだった。鐘がなり、導師入堂、お経が始まり、焼香などと、一連の流れは催事として認識しているにすぎず、供養として認識していたわけではなかったことに最近気がついた。塔婆を建て「◯◯の志すところ~」という請願が右から左へ流れていただけに過ぎなかったわけである。この歳になってようやくそのかたじけなさがしみるようになってきた。
 昨今の急激な社会構造の変化は、信仰形態や、家族のあり方、生活スタイルに大きな変化をもたらした。寺院を取り巻く環境は、杓子定規に言えば師弟の縁といった法灯継承から、親子の縁での経営相続をせざるを得なくなり、一方在家は神仏・先祖のご加護より、金銭と老後の安定を訴求する時代になった。
 信仰とは自分より大きなものによって生かされ、許されていることを実感する。ゆえに生きていく上でのさまざまな選択と決定への自信へとつながるものであるが、若者に勢いや自信が感じられなくなったのは、この信仰の欠如による自信の喪失であろう。これでは国家そのものが自信を喪失してゆくことになるだろう。
 私の世代では日頃の生活に追われ、祖先から続いてきた信仰の継承は事務的なものにならざるを得ない。今の在家の信仰観は、素人が富士山に革靴のままガイド無しで登るかのようなものになっている。熱心な信徒以外の多くのユーザーのレベルは5合目まで自動車で来て登頂した気になって帰るようなものである。「人を観て法を説け」というものがある。法華経で読まれる如来寿量品では方便について徹底して解かれていることを鑑みると、いまの時代にこそ、人を観て法を説く釈迦の姿が僧侶に必要なのではないかと思う。昨今流行の「やる気スイッチ」は信徒それぞれ違う場所にあり、どこを押すべきか、数千年も前から釈迦は見通しておられたのかもしれない。(了)
 

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