飯塚通允上人インタビュー全文

飯塚通允上人インタビュー

布教師会 本日はお時間をいただきありがとうございます。改めまして、本企画では経験豊富な先輩僧侶から、ご自身の経験談や管区の歴史などをお聞かせいただこうとするものです。どうぞよろしくお願いいたします。

飯塚 はい。張田会長や佐藤上人から連絡をいただきましたけれど、私は原稿をつくらないものですから、思いつくままにお話しさせいただければと思います。

布教師会 はい、ありがたいです。今日はぜひその「思いつくまま」の中にあるお上人の歩みを一緒に辿らせてください。

飯塚 さっそくですが、お話というのは長くするのは易しいんです。先輩の先生によく言われたのが、「飯塚君、よく勉強しろよ。10勉強しろよ。そして人に話すときは2話しなさい。そうしたら聞いている人はよくわかるんだ」と。10勉強して2喋る。なかなかできないことですね。
NHKに鈴木健二アナウンサーという方がおりましたが、あの方は非常に勉強家で、話も上手だった。一つの事を紹介するのに、まず非常に詳しい本を1冊読む。次に同じような本を読む。10冊ぐらい読むのだそうで、それも飛行機の中なんかで。1冊目は丁寧に読んで2冊目はその半分くらいで3冊目は……。前に読んでいるので飛ばしながらでも理解ができると。そうやって勉強をして人に話をしていたそうです。
人間は1分20秒を過ぎると、聞いている人が、話が長いぞと思うのだから、くれぐれも心してお話をしなさいと教わりました。

布教師会 「10勉強して2話す」。最初から核心をいただいた気がします。布教に限らず、私たちの仕事全部に刺さりますね。

飯塚 前置きはこんな感じで、まずは自己紹介ですね。
私が生まれたのが1934年、昭和9年の1月5日だそうです。この寺(長光寺)で先代住職の長男として生まれました。昭和9年ですから、そろそろ戦争大勢に入る頃です。昭和12年支那事変で昭和15年にこの土地の小学校に入学しました。

布教師会 飯塚上人の小学校時代そのものが、戦争の真っただ中だったのですね。

飯塚 そう。当時、小学校をなんて呼んだかというと、ここは睦岡村であったんで睦岡村尋常高等小学校と言いました。小学校6年生までと、高等科1年、2年というのは同じ学校の中にあった。義務教育は6年。高等科1年、2年は行きたい人は行った。でも大体の人は行きましたね。6年じゃ足らないということで。そして翌年、昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まった。私が卒業したのが昭和21年3月、戦争が終わった翌年ですので、小学校時代は全くの戦争中です。小学校2、3年ぐらいはまだ平和でした。ラジオではですね、日本の軍隊が南方あるいは、どこそこで大変な成果を収めた。という報告ばっかりですよ。もちろん、あの12月8日の太平洋戦争が始まった時の記憶も覚えてます。12月8日未明アメリカ合衆国と戦闘状態に入れり、とラジオで報告しましたね。実は皆さん知っているように、アメリカにはまだ正式な通告をしてなかったんですね。不意打ちの砲撃だった。だから成果が上がった。
小学校4年生ぐらいまでは本当に日本は景気がいい。すごい力でこの戦争が終わるんじゃないかなというそういう雰囲気。新聞もそうで、すべての報告が勝った勝った勝ったであったことを記憶している。でも事実は違ったんですね。事実は放送をしなかったですね。
昭和18年、アッツ島というのがありまして日本軍はそこで最初に玉砕をしました。それから、日本の軍隊はどんどんどんどん負け戦。しかしソロモン群島だとかミンダナオ島だとか、いろんな,戦争があったけれども、決して負けたとは言わなかった。「すげえな、日本って強いんだな」っていう子供心をはっきり覚えてる。

布教師会 「子どもはそのまま信じてしまう」-当時の空気が凝縮されているように感じます。

飯塚 そのうちにアメリカのB-17という飛行機が最初に九十九里から東京に向かって、そして中国へ飛んで行った。
その頃から日本はもうアメリカにどんどん攻められる、危ないぞということで、昭和18年の春頃か、疎開児童を入れるために、お寺は本堂をあけなさいと。私のところへは疎開児童が、小学校4年生ぐらいの男の子50人と、先生の家族、それから寮母といってお世話をする人が2人、本堂を明け渡した。お隣の妙宣寺さんは女の子。子供たちは一年ここにいました。
戦争が激しくなってきて、アメリカ軍が上陸してくるぞと、この九十九里は危ないぞということで、疎開児童は岩手県へ移りなさいということで本堂があきました。あぁよかったなぁと思ったところに入ってきたのが陸軍の部隊、一個中隊。大きい庫裡がありましたので、庫裡の一部屋を将校さん、中隊長と見習い士官2人位に貸しまして、私はずいぶん可愛がられました。小学校5年生ぐらいの私は、兵隊さんが毎日円匙を担いで出て行くのを、何やってんのかなぁなんて思いながら見ていたのを覚えています。
どんどん戦争が激しくなってきまして、その兵隊がどこかへ移動しました。その後に入ってきたのは戦車隊です。戦車がお寺の中に入ってきた。すごいですよ。戦車が転回をしますと、門の柱なんかガリガリにして。

布教師会 お寺の風景が一変していく様子が目に浮かびます……。

飯塚 また、山の中に穴を掘って、戦車の退避壕をつくる。このお寺の周りは穴だらけ。蛸壺というのがありまして兵隊がこの中潜ってるんです。そして戦車を待ち構えるのです。
そうこうしているうちに、戦争が終わります。ここにいた兵隊が、坊や、ラジオを貸してくれんか、天皇陛下の終戦の言葉を聞くんだ、と。兵隊が白砲を打ってラジオを聞きました。兵隊が整列をしました。正午の終戦の放送を聞いております。私は小学校6年生ですから、天皇陛下が何言ってるんだか、その時は分からなかった。

布教師会 子どもには「意味」は分からなくても、その場の空気だけは身体に残りますよね。

飯塚 そして戦争が終わって兵隊はいなくなった。ああ、やっと本堂があいたと思っても本堂へ行くことができなかった。なぜかというと、残ったのはノミです。本堂へ入る時には、ズボンも裾まくりをして、すねを出していかないと、とっても本堂へ行けなかった。
誰もいなくなった後のノミですから、飢えてますよな。人間が行くとワーッと寄ってきてすごいんですよ。ノミの歩く音っていうと、そんなことあるかって言うんですが、そういう音がね、耳に今も残ってるんですね。まあそれもやがてBHC、DDTが出てきて綺麗になって解決した。
私は6年生、戦争が終わりまして、さあこれからどうする。当時で言うところの県立成東中学校へ進もうと決めました。当時よかったことは、戦争が終わり、2学期が始まった時に墨と筆を持ってこいと言われました。そしてこれから言うところを全部墨で消せと言われ、真っ黒に消されました。いろんな教科の教科書を全部墨。そこは試験に出ないから安心しろと。試験範囲が非常に狭くなったってことを覚えている。
試験を受けるために、私は父親に連れられて、山の中の道を歩いて行きました。バスもなし、自転車もなし、何もないですから。学校まで10キロありますが、結果は一人で見に行きました。自分の番号が出てて、うまい具合に私は中学校へ入学ができた。

布教師会 その頃の進学は今以上に「体力のいる決断」だったのですね。

飯塚 そして旧制成東中学に入学を始めた。やがて1年が終わって、2年生になったら学制改革というのがありました。それまでは小学校6年高等科だとか、あるいは大学の予科だとかいろいろありました。昭和22年なんですが、今度の学校の制度は小学校6年、中学3年、高校3年、大学4年、6334という制度が出来上がって各市町村に中学校ができました。私どもはそのまま成東中学。名前が成東高等学校併設中学校で1、2、3年、そして高校3年というところでスムーズに中高一貫教育で6年間成東へ通うことができました。
だんだん世の中良くなっていきますので、だいたい自転車で通うことができました。最初に学校に入った時は終戦の翌年ですから教科書はありません。先生が全部黒板へ番書です。それをノートに写した。そのうちに夏休み終わってから教科書が配られました。どんな教科書っていうかというと、新聞紙に印刷されている。お前たちこれ持って行って自分で切り抜いてページを揃えて糸で綴じろと。自分で糸で縫って、風呂敷へ包んで縛って通ったことを覚えています。
中学校生活では、結構私はおとなしくて人と喧嘩することもできず、非常におとなしい、意気地のない人間でした。生活科学部といったかな。図表を書いたり、線引っ張ったりする部活に入ってたんだが、どうも俺の性格ではダメだと。もっと性格を強くしなきゃならん。それには運動をやろうと。

布教師会 今のお強い飯塚上人が「性格を強くしなきゃならん」と思っていたことが驚きです。

飯塚 ところが、剣道や柔道はまだやっちゃいけなかった。GHQと言いまして、ジェネラル・ヘッド・クォーターっていうんですが、マッカーサーの命令で、柔道、剣道は一切学校でやってはいかん。教育の現場でそれをやってはいかんということでしたので、とうとう学校を卒業するまで、柔剣道はありません。
それで一番何もいらない陸上競技部へ入りました。友達もできるし、県大会などで他の学校の選手とも付き合うしで、3年間鍛えられまして、そこである程度性格が強くなったんですね。私の性格を形成するに、大事な3年間でした。
真面目に練習をし、先輩になれば下級生を引っ張っていく。そのことが今の私の基本だと考えている。陸上競技をやってよかったなぁと。だから若いうちにはうんと鍛えておきなさい。
当時は練習中でも絶対に水飲んじゃいけないんですね。夏なんてばったり倒れたりもしますよね。そういうことで、いい体験を高校3年間でしました。

布教師会 今年は戦後80年ということもあって、大変貴重なお話をありがとうございます。
飯塚上人の「基本」がこの3年間で出来ていったのですね。そこから僧侶になるきっかけというものはあったのでしょうか。

飯塚 私は坊さんになる気は一切ありませんでした。父親は厳しかったですよ。ものすごく厳しく育てられた。なんで父親はあんな厳しかったのか。なんか用があると、通允!って大きい声で呼ぶんです。すこしでも遅れると、「この野郎、返事より早くこっちへ来い」って。そんなのできないんだけどね。そういう教育の仕方で育ったんです。

布教師会 「返事より早く来い」言葉の強さがそのまま当時の空気ですね。差し支えなければ、お父様はどのような生い立ちで僧侶になられたのでしょうか。

飯塚 私の父親は大網白里町で生まれて、養安寺の出なんですが在家の出で、どういうわけかわからんですが、小学校4年生にここの弟子入りをしたんですね。
高等科1年から立正中学の寮に入って、そして大学の予科に通って、大学予科2年終わった時に父の師匠が亡くなって、学校を辞めて住職に就任。21歳で住職をしたんです。

布教師会 21歳。早くからやられていたんですね。

飯塚 そうです。父親はお師匠さんにどういう教育を受けたか分からないけれども、本当に父親っていうのは怖かった。でもそれが今やっぱり非常に役立ってるんですね。
例えば、当時はよく歎徳文だとか全部書きましたね。父親は広告の裏へ鉛筆で書いて、お前これを清書しろって。うまく書けないけども清書しますね。できましたと持っていくと、この字が違うぞと、指摘をされ、何回も何回もそれをやっている。そのうちに、あ、歎徳っていうのはこうやって書くんだ、って覚えてゆく。うまい教育をしたもんだなぁと思う。
他にも、呼ばれて「墨すれ」って。師匠の横で墨すりながら、お題目ってこうやって書くのかと。子供ですから見て覚えちゃう。手にとって教わったことは一回もない。
お経だけはね、大学の2年生の時に方便品・提婆品・壽量品・神力品を一々文々で教えてもらえたから、それは良かった。
高校3年生の時にルーム主任による最後の面接があって。その人もおっかない先生でね。その先生が「おい、仏教って歴史が長いな。ずいぶん長い歴史があって、いまだに残ってるんだな。悪いもんだったら、残んねえな」っていうもんで。私は坊さんになる気なんてなかったはずだけど、どこかに染み込んでたんでしょうね。先生のその一言がきっかけで、僧侶になろうと思い立正大学へ進むことを決めたんですね。
今思えば少し反発心があったのか、宗学科じゃなくて史学科へ入った。ただ、立正に入るとやっぱりお坊さんのせがれがいっぱいいるんですよ。そういう友達にどんどん感化されていったんですね。でも、まだ私は坊さんの資格を何も受けていなかった。
1年生の時は近くの荏原中延に下宿をし、2年生の時はここから通いました。3,4年生は今、仏教学部長をやっている安中さんのお父さんが、「飯塚さん、私のとこなら部屋空いてるから来ませんか」ということで市川から通いました。まだ度牒も何も受けてませんが、4年の夏休みに不思議なことがありましてね。
私の借りている家に小さな木戸があったんですが、家へ入ろうとしたら、一人の男が木戸から入ったんです。錯覚でもなんでもないんです。お寺の方へ行って、誰か来ませんでしたかって聞いても、いや、来ないよ。おかしいな、とみんなで草の中を、竹の棒で探したりなんかしましたけどみつからなかった。
そしたら翌日、電報が来まして、父親が病気で倒れたからすぐ帰ってこいと。市川ですからすぐ帰ってみたら、父親が奥の部屋に寝てて、まだ40いくつかですけど、もう話もできない状態。さあ、困ったなあ。幸い授業はあと1教科と卒論だけでよかったので、残りはうちから通いながら父親の看病です。
私は長男ですから、子供のうちからやっぱりある程度仕込まれていたんでしょう。あとを継がなきゃという責任感みたいなものが当然ありますよね。大学4年の時に父親が倒れたというのが第2のきっかけでした。
ようやく度牒試験を受けたのが、銚子妙福寺の廣野さんの先々代が当時宗務所長の時でありまして、そこで試験を受けました。大学4年生ですよ。

布教師会 度牒に試験があったのですか。

飯塚 ええ。今そこに持ってきてありますが、合格証をもらいました。それが8月だったかな。そして得度をしたのは、大学4年生の3月です。大学終わるまで、私は僧籍が全くなかった。大学を卒業して、夏の信行道場を経て、ようやく一人前の坊さんになったということです。

度牒の合格證

布教師会 いくつもの出来事が静かに重なっていったのですね。
飯塚上人といえば、法華経講座などをなさったりと非常に博学なイメージがありますが、どのような勉強をされていたかお伺いしてもよろしいですか。

飯塚 実のところ勉強という勉強をしてきませんでした。というのも、昔話になりますが、私が大学を卒業したのは、昭和31年。当時お寺の収入なんて全くありません。例えば、檀家回りしてもお布施はみんな10円玉です。自転車でお経回りをする。ありがとうございますと頂いて、ポケットがだんだんと重くなる。自転車でお経回りをしてますから、風呂敷へ包んで、ハンドルへぎゅっと結んだりして。10円玉だけです。100円札がたまーにあるくらい。だんだん物価が上がってくる状況ですから、お寺の生活なんてできません。
寺を修復する場合は、幸い山に木がありましたから、山の木を売って、お檀家と相談して、そう遅滞なくできました。結構、材木も高い時代です。
でもお布施の収入なんてほとんどありません。さぁどうしようか。坊さんで生活ができない。親父は病人ですから、どこかへ勤めちゃっては、なかなか看病もできない。
少し悩んだんです。一応、教員の採用試験がありまして一応は受けました。中学は合格したんですが辞退して、うちにいようと。しかし、毎日うちにいても、何しようかと。
そしたら一番いいのは、百姓をやれば一番いいんじゃないかと。たまたま田んぼが4反歩、この下にありました。それから檀家総代の筆頭がいいおじいさんで、いろいろ寺の面倒を見てくれましたね。御前さん、開墾すんべや。どこですかって聞くと、外山に、1800坪ぐらい土地があるからと。開墾するったって、どうするんですかって聞くと、俺がやってやる、なんて。その人、道路やったり土木の専門家ですから。俺が平らにしてやるよ、全部。当時は機械がないですから、全部手でやるんですよ。それで、開墾はできても木の根っこなんかは残るんですね。それを手伝ってくれたのが、高校時代の陸上仲間なんです。この辺りにたくさんいましてね。みんな手伝いに行くよって、十人ほど。ただですよ。あれ、わりぃなーって。今夜、いっぱいやるか。って調子で。そうやって畑ができた。全部、手作業です。
私も初めてですから、誰かに頼みます。あんたのとこへ手伝いに行くから、手伝いしにきてください、って頼む。私も一緒にやって覚えていくんですね。鍬の持ち方からなにまで。やってくうちにだんだん覚えて、ほぼ10年間それをやりました。この土地の人と一緒にお互い助け合ったりの10年間でした。
そのうちにですね、家之子妙宣寺の山田上人がなかなかの世話好きでね、飯塚さん学校を手伝わないかと言ってくれた。山田さんは今の東金の学芸高校へ非常勤で国語を教えに行ってたんですね。私も教員免許がありましたから、やってもいいなということで、昭和39年頃から千葉の学芸高校の非常勤に入りました。まあ、お寺の仕事をやりながらですから、法務があれば休む。学校も理解をしてくれて、30年近く教員生活をすることができました。いい勉強になりました。そこで喋り方も覚えてきたんじゃないかと思いますね。最初は1週間に4日行ったんですが、だんだんと2日になり、最後は週1日とか。校長も私と同級生でもあったのでわがままも聞いてくれました。それが平成2年ぐらいまで続いたかな。
そのうちに銚子の廣野上人から、うち(中山法華経寺)へ来てくれんかと。祖師堂の修復があるから、少し手伝ってよということで、中山へ手伝いに行くようになりました。
工事を始める準備から非常に大変だったんですが、総務ということで、外部との連絡も非常に多く、勉強になりました。
中山法華経寺に手伝いに行ってから4年ほどで、今度は宗務所長をやりなさい、ということで所長になりました。
ですからね、勉強というものをほとんど私はしなかった。本当に時間がなかった。
ただね、勉強はほとんどしなかったけど、本は読みました。
小説ですね、司馬遼太郎、吉村昭、池波正太郎、山崎豊子などたくさんです。例えば文庫本は安いですから、20冊くらい1回に買っちゃうんです。そして、ばーっと読む。でも全部忘れます。どの本にどう書いてあったか、私はほとんど覚えていない。
それではつまらないだろうと人は思いますよね。でも私はそうじゃない。本を読むことによって、頭の中に新しいものが入ってくる。豆を洗うのと同じですね。豆をざるの中に入れて、汚れた豆の上からきれいな水をかける。水は流れていっちゃうが、豆はきれいになる。同じように頭の中へ新しいものを入れて、その汚れを取って、忘れて流れていっちゃっても、頭の中は綺麗になる。そういうわけで、まあ本はよく買いました。ただ小説ですので、仏教やお経の勉強というのはほとんどしなかった。
私は80歳を過ぎてから勉強を始めました。

布教師会 現役時代の多忙さもそうなのですが、それ以上に、80歳を過ぎてから、というお言葉に驚きます。

飯塚 まず小林一郎さんの法華経大講座を一年間かけて丁寧に読みました。なぜそれを読み始めたかというと、雑誌『法華』の中である若い研究者が「三変土田」「六難九易」って言ってる。三変土田六難九易ってなんだろうって。私、知らないんですよ。こんなに若い人がこんなことを知っているのに、なぜ80になる俺は知らないんだろうということで法華経の講座を読み始めた。
ある時、中国へ行った際に法華経を買ってきました。中国の法華経ですから、返り点は何もありません。そこで私は訓読になっているのを見て、そこに自分で返り点や送り仮名をつけて読めるようにしました。それでだいぶ力がついた。例えば、お葬式の時に開方便門、示真実相と言いますね。これは法師品に出てくるんですが、「この経は~」に続くんですね。お施餓鬼では如以甘露灑・除熱得清涼と唱えますね。これは授記品に出てきますが、大目犍蓮・須菩提・摩訶迦旃延らが、お釈迦様から仏になれますよと記を授かることは、甘露の水が我々の身体をさーっと癒してくれるように、また、飢餓状態の自分たちの目の前に立派なごちそうが表れ、王様にどうぞと導かれた時の大きな喜びのようだ。とこういう意味合いなんですね。こういうことはお経を読んでいるうちにだんだんと分かってくる。
また、御遺文も読み始めています。御遺文を読むと法華経がいっぱい出てくるんです。私はその経文がどこに出てくるかを探すんですね。これが大変だけど、実に勉強になる。必要なものはノートを取ってやってます。
これは若い世代の方へのメッセージになりますが、皆さんもぜひ勉強してください。本堂でお経を唱えるのももちろん大切なんだけど、ぜひ自分の机の上で、読んでください。
80歳を過ぎてからそういうお勉強ができて、このおかげで頭がまだボケないのかなという感じを今持っているということです。

いたるところに赤文字がある

布教師会 年齢を理由にせず、なお学びを深めておられる。その姿勢そのものが私達後進の大きな刺激になります。飯塚上人の学びがやがて人に伝わり、次世代へと受け継がれていく。
そう考えると、青年会の歩みともどこか重なるように感じます。
その青年会の成り立ちについて、飯塚上人はなにかご存じでいらっしゃいますか。

飯塚 正直なところ、青年会については私もあまりよくわかっていません。昔、昭和38年頃かな。銚子の廣野観山上人が私のところへハガキをよこして、日蓮宗の宗務院でも全国で青年会を作ろうという動きがあるからぜひ東部でも青年会を作ってやらんか、というのがきっかけだそうで、その後実際にどういう経緯かまでは知らなくてですね。
初代の会長さんが、成東湯坂の法宣寺の新庄寛誠さん、私もやったし、家之子の山田さんもやったけれども、そういう細かな歴史については、資料もないです。よければ、後でよく調べてください。

布教師会 現役青年会員への宿題と受け止めさせていただきます。
令和13年には750遠忌がございます。飯塚上人は700遠忌を経験されていますが、当時の様子をお聞かせ願えないでしょうか。

飯塚 700遠忌っていうのは昭和56(1981)年。今と全くムードが違ったんです。日本全体がもう大変な景気のいい時代で、ものすごいみんなも元気だったんですね。ですから各お寺でもいろんなことをやったはずです。今と全くムードが違う。
私のところでは天水桶をつくりました。本堂の真正面にあります。総代世話人の名前を全部書き出しまして、刻まないで、浮き彫りで、作りました。それから歴代墓をつくって周りを直したり、まあそんなことで実に総代はじめ檀家の皆さん、本当によく動いてくれました。それが700遠忌でしたね。

布教師会 形に残すというのも、やはり次の世代への責任でもありますね。
そうした節目の年に、飯塚上人は宗門的にどのような立場で関わっておられたのでしょうか。

飯塚 宗務所内で護法担当事務長をやってましたね。
他には、私の宗務所長時代の話になりますが、宗務院で開催される全国所長会議ってのがあるんですね。その資料が事前に送られてくるんですが、その決算を見ていたところ、間違いを見つけたんです。それも一箇所だけじゃなくて、大変な数の。そこで宗務院へ電話して、財務部へ「この決算書間違ってるよ」と言って、今度の所長会議までに何とか方法を取りなさいと、私はお願いをしておいた。
所長会議当日、冒頭に紙が配られまして、決算書の正誤表が出たんです。宗会の議決が済んで、最終的に終わった決算でした。そして正誤表が出た。私、カチンと来て。所長会議で決算書に正誤表をつけるとは何事だ。そうでしょう?決算書は監査を通って議会で決定したものですから、それが間違ってました申し訳ございませんって、そういう理屈は通りません。お考えなさい。
他の所長さんも何名かは賛成されるのもいるし、そんなこといいじゃないかという人もいるんです。
なんで20か所も間違っていたかというと、後でわかったんですが、パソコンで以前の記録をそのまま使っちゃったというんです。手書きならそんなことねないですからこれがパソコンの怖いところです。
同級生で宗務院の部長をしていた二宮君が仲間だもんで、飯塚や、お前どうすんだこれって。なんとかうまく収まるか考えなさいなんてやりとりもあって。結局すったもんでゴタゴタしているうちに、しばらく経ったあと、結局最終的に原本が正しかったということで了解してくれんかと打診され、まあまあいいだろうこれから気をつけんだなということで、落ち着きました。それから宗務院の中が非常にピリピリしてきたということで、いい意見になったと後である方から言われたんです。
ミスについてなぜ分かったかというと、私、町のですね代表監査を8年あまり、全くの素人だったけれども、やってくれと頼まれまして、経験していたんですね。町の会計監査だから大変なんですが、いい勉強になりましたね。

布教師会 今の話を伺うと、役職に限らず、日々の仕事の中で「筋を通す」ことの大切さを思います。
そうしたご経験を踏まえて、いま若い僧侶たちに伝えたいことはございますか。

飯塚 そうですね。まずは皆さんのお寺にいろんな資料があると思うんですが、きちんと整理をして大事にしてください。私も目録をとってありますが、お寺の財産ですから大切にしてください。
それから布教という問題ですが、私たちはよく大勢の前でお話をしますよね。法華経は素晴らしいんだ、お題目は素晴らしいんだと説きますが、果たして今の人たちが気づいてくれるかどうか、非常に疑問ですよね。もし話がうまくても、お祖師様が上野殿御返事で「聴聞する時はもへたつ(燃立)ばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり」なんて言われてますよ。じゃあどうしたらいいんだ、という問題ですが、私は話が下手だったから、みんなでしゃべって、自分で法華経はありがたいんだ、お題目はありがたいんだと言う。
このようにできるだけ仲間づくりで、いっぱい飲みながらでもいいんですが、胸襟を開く、そういう機会をですねうまくつくっていくこともこれからは必要じゃないかなと思います。

布教師会 胸襟を開く……。法話そのものではなく、関係性そのものが布教だということですね。

飯塚 あとはですね。皆さんお塔婆書くでしょうが、上手に書く必要があるんです。
下手な人が飛ばして書くと、余計に字が飛んでっちゃう。下手な人は下手な人なりに、丁寧に。
特に裏書きは、ぜひとも丁寧に書く。私は法事があるときは、塔婆の表を読んで、裏も全部読むんです。裏書きは同じじゃありませんよ。私は、裏書用の文言を岩波文庫の法華経の何ページのどこどこにこの文章がある、なんて書いてあるんです。
ですから、一人ずつ全部違う。違うお経文を書いて読んであげる。非常に喜ばれます。

布教師会 一基ごとに向き合う姿勢がそのまま供養の深さにつながりますね。
ところで、飯塚上人が尊敬する、心の残っているお上人様はいらっしゃいますか。

飯塚 そうですね、お坊さんでこの人すごいなっておもったのは、小川原潮栄っていうお上人がいたんですよ。清澄の別当をやられてた方で。昔インドへ行った時に、そのお上人と一緒になった。インドにいろんな遺跡があるでしょ。お経一読して、ご回向するんです。なんとね、その場その場できちんとした滞りないご回向をしてくれてね。その場所をよく理解しないとできませんやな。
他にもいろいろ思い出せば偉い人もいたでしょうがな、印象に残ってる話と言えば、「です・ます・はい」をしっかり言いなさいという事ですね。語尾をしっかり出す。坊さんでもたまにいるでしょ。回向の最後がはっきりしない人。気を付けた方がいい。

布教師会 基本の徹底が結局は一番難しく大事なことなのかもしれません。
飯塚上人、今日は貴重なお話、誠にありがとうございました。最後に、時代が変わりゆく中で、それでも大切にすべきものについて、一言いただけますでしょうか。

飯塚 今日は、煩わしいことが好きなお上人たちが集まっていますね(笑)
最近は、煩わしいことから避ける人が多くなったじゃないですか。それはそれでいいとは思うんですけれども、やっぱりこうしてさ、集まって話をするってすごくいいことだよな。
最近は葬儀も一人でやることが多くなってきましたね。一人でいるのは楽だよな。楽だけども盗めないよね。ああ、そうか。こういう回向文もあるんだな。なんて。
俺たちみんなそう盗んでね、教わるんじゃなくて。どんな商売も同じで盗んで覚えてきた。
よく俺に言うんだよ。「御前さん、いろいろな回向文使うけど、教えてくれませんか」って。
「そんなのわかんないよ。適当に、適当に出るんだから・・・」

編集後記
飯塚上人はあらかじめお伝えしていた質問に対して、とても丁寧に準備をなさってくれていて、実質3時間を超えるインタビューだったが、体感的にはあっという間の時間だった。
本文には掲載しきれなかったが、飯塚上人は相当な読書家である。それ故、誤植や論理の破綻を見逃さない目を持つ。出版社へ誤りを指摘し、後日礼状が届いたことも一度や二度ではないという。
また、陸上競技生活において審判の資格を取得した話も印象深い。今でこそ機械で判別するようなコンマ秒の世界を、当時は人間の目で見極めていたという。何度も繰り返し訓練を重ねることで見える世界が変わるのだとか。読経も同様。繰り返し向き合うことである日ふと意味が立ち上がってくる。
80歳を機に酒を断ったという話も飯塚上人らしい。酒を飲んだ時は楽しいが、その酒を分解するのに体力を使う。無駄なエネルギーを内蔵に使わせないことが健康の秘訣だ、と。笑いながら語られたその一言に、長年自分の身体と向き合ってきた人の覚悟が滲む。
「10勉強して2話す」最初にいただいた言葉が最後まで胸に残っている。

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