8月18日、御題目講「信じる心」

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こんにちは、副住職です。
先日、奉行いたしました妙恵寺8月の御題目講。
その際の住職の法話をまとめましたので、是非ご覧ください。

 

「それ仏道に入る根本は信をもって本とす。・・・たとひさとりなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者也。」(昭和定本392頁)
 
8月に入って毎日、雨が降っておりまして、これは記録的なことのようです。昨日は少しだけ晴れ間が見えましたね。そして今日はお天気が良くなりまして、急に蒸し暑くなりましたが、皆様ようこそご参詣くださいました。
裕真も布教研修所で頑張っておりまして、8月のお盆も一週間ほど自主研修ということで帰ってきております。
修行というのは、最初のうちは決められたことを実行するだけで大変なものですが、だんだんと体が慣れてきますと、自ら進んで課題を見出してチャレンジしていくことによって、その修行の内実が深まっていくものだろうと思います。
義務的にこなしていくだけで、できれば逃げたいという心持ちですと、本当の意味の修行になりません。自発的に継続する意志をもって、様々な経験を重ねていくことが大切だと思います。
また、仏道修行はお寺や道場に限らず、日常生活のあらゆる場面での体験が、すべて仏道修行につながっているということ。特に一見マイナスの経験をどのように受けとめて乗り越えるか、ということが最も大切なのです。このことは、毎月お参りなさっている方にはいつもお話ししていますね。
 

さて、今月の聖語は『法華題目鈔』というご遺文の「信心あらん者は、鈍根も正見の者也」という一節です。
法華経のお題目を唱えることにはどういう功徳があるのか。私たちが生きていく上で、お題目がどのような意味で生きる拠りどころとなるのか。そうしたことを分かりやすく説かれているのがこの『法華題目鈔』であります。
さきほど拝読した冒頭には、「それ仏道に入る根本は信をもって本とす」とありますように、仏道に入るための出発点として「信」の重要性が強調されているのです。
「信仰」とか「信心」という言葉を私たちは何気なく使いますが、信仰をもって生きるというのはどういうことなのか、改めて考える必要があると思います。
とかく信心といいますと、何かこれだけを信じて、他は信じないとか、自分が正しいと思うこと、都合の良いことは信じるけれども、そうでないことは信じないという傾向があるように思います。
すなわち信心とは、自分の心を中心として何かを信じるというふうに普通は考えてしまいがちです。信心が強いとか信心堅固というように、何物にも負けない自分自身の信念のことを「信心」という場合が多いですね。
日蓮聖人は「法華経の信心」とおっしゃいますが、それは人間を中心とした信心ではありません。自分の願いを叶えたいから信じるとか、欲望を満たすための信心というのは、自分が主体になっています。
「法華経の信心」とは、そうした自分を主体とした信心ではありません。「法華経の」というのは、法華経をお説きになられたお釈迦様の、大いなる御心に随順することが基本なのです。
わたしどもは、とかく自分が中心となって法華経に対する信心をもっているとか、信心が足りないとか、自分で判断してしまいますが、自分を基準にして判断してはいけないのです。信心のありようを自分で判断できると思ったら、自分本位になって、慢心につながる危険性があります。
自己を正当化するための信心では、慢心になったり天狗になったりしてしまって、思わぬところに落とし穴があるわけです。
日蓮聖人がおっしゃる信心とは、自分が主体ではなくて、あくまでも法華経の世界に重きをおくのです。
私どもは法華経に説かれる永遠なる生命の中で生かされている。この大自然であったり宇宙の営みであったり、それは全てが仏の御心の中にあるというふうに仏教ではとらえます。その仏の御心に素直になっていくこと、それが「法華経の信心」なのです。
自分はあれが良いとか悪いとか、自分で選択するのではなく、もっと大きな世界から自分に求められている課題があるはずです。
私たち人間はみんな顔形が違いますね。「あー、もっと美人に生まれてくれば・・・」というような欲望はありますが、自分の顔形に責任をもってそれぞれの役割を果たさなければならないのです。
信心とは自分の役割に目覚めること、それをきちんと実行してゆくことであって、自分の分を越えたことをしようとすることではないです。それぞれに与えられた使命とか責任があるんですよ。そのことに気づきなさいよ、目覚めなさよ、実践しなさいよ、ということを教えているのが法華経です。
私たちはこの限りある命の中で、ちっぽけな価値観で生きている間は、まずは自分が得をしたいと思います。他人よりも自分が先に食べたいという欲望については、先月お話しましたね。
地獄と天国のパビリオンの話では、肘が固定されていて曲げられないから、自分が先に食べようとすると思い通りに食べられない。ですから、まず先に相手に食べさせてから、その後で自分がいただくのが天国のパビリオンだという話をしました。
自分が利益や良いことを得たいと思うならば、まずは他の人の為に何かをやりなさい。自分が直接的に何かをもらおうとするのは、ただの欲張りです。自分が他人に対して何ができるのかを考えて実行すれば、その余慶の功徳が回ってくるわけです。
世のため人のために自分ができることを率先して行い、少しでもお役に立っていけば、それが回りまわって自分の利益になるんだ、という原理を法華経は説いていると言ってもよいかもしれません。
自分本位に何かを信じて、こうありたいという欲望を満たしたり、願いを叶えさせてもらうために拝むというのも、最初のうちはいいでしょう。けれども、だんだんと自分を優先する心にはどこか問題があることに気づいてくるのではないでしょうか。
自分の心を中心として神仏に祈願を立てるという、いわゆる御利益信仰では、いつのまにか神仏を自分に奉仕すべき存在とみなし、神仏を隷属化させてしまう場合があるのです。このように自分の心を優先にし、恩恵を期待して何かを信じるというのでは、本当の「信心」とは言えません。その辺が難しいところです。

 

さて、「信心あらん者は、鈍根も正見の者也」というテーマですが、『法華題目鈔』の前後の文脈をたどりますと、「有解無信(うげむしん)」とか「無解有信(むげうしん)」のように、「解」と「信」のバランスが問題とされています。
「解」と「信」について、それぞれ「有」と「無」との組み合わせが四通りあります。「四句分別(しくふんべつ)」といって、「有解有信」「有解無信」「無解有信」「無解無信」の四通りです。
「解」というのは理解力、頭のよさですね。頭の回転が早くて理解力があるというのは人間にとって望ましいことです。そこに「信」すなわち信心が備われば、一番望ましいわけで、これが「有解有信」ですが、なかなか両方を兼ね備えることはできません。
一般に理解力が優れていて頭の良い人は、自分の損得勘定が早くて、合理的な考え方ができる反面、「信」が欠落している場合が多いのです。これが「有解無信」です。
すなわち信ずること、自分自身を中心とした考え方ではなく、大いなるものや目に見えない存在に生かされているという感性とか、自分を超えた仏様の御心に素直に随順するという意味での「信心」が欠落している場合が多いようです。
いわゆる「学」がある人は、知識をひけらかしたり、小賢(こざか)しかったり、自分は他人とは違うんだというような尊大な態度を示す面があるようです。
そうした「有解無信」の典型とされるのが提婆達多です。提婆達多については以前からお話ししていますね。
提婆達多はお釈迦様の従弟にあたり、学問や武芸の能力は非常に優れていたのですが、嫉妬心が強かったためにお釈迦様に敵対したというお話です。
提婆達多は「三逆罪」とか「五逆罪」という、お釈迦様を亡き者にしようとしたり、マガダ国の阿闍世太子を唆して父王を殺させる逆罪を犯したために、阿鼻地獄・無間地獄に堕ちたと説かれます。
何故そうなったかというと、優れた能力や頭の良さが自分の利益や欲得を満たすことに傾いてしまって、本来のプラスの能力がマイナスの方向に作用したからです。
それは人間がこの世に生きる上で、最も重要な心としての「信心」が欠落していたからだとされます。すなわち自己を超えた存在によって支えられているという認識、仏の世界に帰依する心、謙虚に信じる心が欠落していた。そこが決定的なマイナス面とされるわけです。

いっぽう「無解有信」の典型とされるのが、周利槃特(しゅりはんどく)です。
サンスクリット語では兄がマハーパンタカ、弟がチューダパンタカで、2人兄弟だったとされます。幼い頃に親と離れてしまって二人で生活していましたが、お兄さんはとても頭が良くて、お釈迦様のお弟子になりました。弟のチューダパンタカが周利槃特と呼ばれるのですが、この弟さんは物覚えが悪くて、自分の名前すら覚えられなかったといわれます。
お兄さんはこの弟さんを守らなければならなかったので、一緒にお釈迦様の弟子にさせてもらったのですが、他のお弟子方から、弟は何もできなくて迷惑だから、精舎から出て行ってほしいと言われます。
そこでお兄さんは弟に、お釈迦様の説かれた真理の言葉の一句を懸命に覚えさせようとしますが、弟は観念的な言葉が理解できず、まったく覚えることができなかったのです。
お兄さんも憤慨して、とうとう弟は追放されることになり、精舎の隅で泣いていました。
そこへお釈迦様が近づいて来られて、「どうかしたのか?」と尋ねられ、周利槃特は「私は何もできないから追い出されました」と答えます。するとお釈迦様は「そなたは私の弟子ではないか、私が良いと言うのだからここにいなさい。そなたにもできる修行を与えよう」と言われて、ホウキを一本渡されました。
「この箒で祇園精舎の隅から隅まで、掃き続けることがそなたの役目である。」「塵を払おう、垢を除こう」という言葉を唱えながら掃除に励むように、と言われて、周利槃特は喜んで毎日毎日掃除をしました。
精舎にはたくさんの草木がありますから、葉っぱが落ちたり土埃が舞って汚れてきます。朝掃いても夕方にはすぐ散らかり、それを掃くと翌朝にはまた散らかっている。それでも周利槃特はお釈迦様から与えられた「塵を払おう、垢を除こう」という言葉を唱えながら、毎日その箒で掃除をしていました。
そしてある日、周利槃特は箒がすり減ってボロボロになり、自分もホコリまみれになっているのを見て“はっ”と気づきました。「塵を払おう、垢を除こう」というのは、ただ落ちているゴミを掃除するということだけではなく、自分自身の中にあるゴミとか垢をきれいにしなさいということではないか。毎日掃除しても、自分の中の塵や垢は次々に出てくる。だからそれを掃き清めること、それが修行なんだということに気づいたのです。
無心になって掃除を続けたことによって自分自身の内面をずっと深く見つめることができた。それが周利槃特にとっての目覚めになり、それからお釈迦様の教えが心に染みるようになったのです。頭では理解できなくても、ハートで受け止めることができるようになったわけです。
こうして周利槃特はお釈迦様の教えをひたすらに信じて、実践を続けたことによって、お釈迦様の説かれた真理に目覚めることができました。
お釈迦様の教えを素直に受けとめた点が「無解有信」の典型とされるのであります。さらに修行を続けた周利槃特は、ついに法華経の五百弟子受記品では「普明如来」という仏になることが保証されます。
今回のテーマ「信心あらん者は鈍根も正見の者なり」とは、こうした周利槃特のような存在にスポットライトが当てられているわけであります。
 

ところで、周利槃特のお兄さんはお釈迦様の教えを観念的な言葉を通して、概念化して認識する能力に優れていましたが、弟はそうした観念の世界が理解できなかったのでありましょう。
これを現代社会の問題に置き換えてみますと、ある意味で学習障害や発達障害という面を考える上での重要な示唆になるかもしれません。
 世の中には、色々な障害をもっている方がいらっしゃいますが、先日、テレビの「金スマ」で紹介されたピアニストの野田あすかさんは、22歳の時に初めて発達障害の診断を受けたことを告白されました。
ピアニストですけれど、楽譜や記号が読めないのです。けれども自分なりに懸命に努力して、一つひとつの音符を音読して録音し、それを自分でわかる文字に起こして、音階に合わせて折れ線を書き込んで、何日もかけて自分専用の楽譜を作るのです。ものすごい忍耐力のいる作業です。
普通の音符がそのままでは読めないというのは、観念的なことに対する認識力がないということでしょう。けれども彼女は、自分なりにその音を拾っていって、それをフレーズにする努力を積み重ねて、素晴らしい演奏をするのです。天才的な耳の力、聴力をもっているのでしょう、こうして有名なピアニストになりました。
テレビで野田あすかさんの日常生活が紹介されていた中で、印象深かったのは、買い物を頼まれてスーパーに砂糖を買いに行った時のことです。
彼女の特徴は、何かに夢中になると何時間でも熱心に取り組んで食事も忘れてしまったり、目的があって行動していても、他のことに興味が湧くと気持ちを抑えられないという面です。ですからスーパーにたどり着くまでにも、余分な時間がかかってしまいます。
そしてスーパーでは、赤いスプーンの絵が描いてある上白糖を買ってきてと頼まれるのですが、いくら探してもスプーンの絵のものが見つからない、ティーカップやバラの絵のはあるけれども・・・。そこで一時間も行ったり来たりするわけです。
スプーンの絵の上白糖がないということで、ウロウロしたあげくにパニックになって泣き出してしまいます。撮影していたスタッフの力を借りたのか、わかりませんが、ようやくお母さんに電話をして、他の絵のものでも良いと言われて、買って帰ることができました。
このように彼女は、指示されたことと少しでも違うと、代わりの選択肢が思い浮かばないわけです。
そうした障害(むしろ特徴)をお持ちの方は世の中に大勢いらっしゃることが最近ではテレビ番組などで取り上げられるようになりました。
おそらくそうした方々にはある種の特殊能力が備わっている人が多いのではないでしょうか。
たとえば、映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが演じた主人公は、一見すると自閉症のようですが、サバン症候群でしたか、数字に強くて超人的な記憶力をもっていました。
 
さて、周利槃特の話に戻りますと、周利槃特はとても心の優しい方で、掃除をしている時に虫が出てきて、ゲジゲジのような虫なら、私だったら潰してしまうかもしれませんが、その虫に話しかけたりして、虫とも会話ができる、そういう能力をもっていたのかもしれません。
この大自然の営みの中で、一匹の虫であれ、どんな存在にもみんな尊い生命があるんだということを心で感じ取っていたのでしょう。お兄さんから命の尊さを観念的な言葉で教えられても理解できなかったけれども、周利槃特はそうした生命の連鎖を直感的に捉えていて、心の優しさに伴って自然と身についていたのだと思われます。
また周利槃特は、自分の名前が覚えられなかったので大きな名札を首から下げていたとも言われます。名を荷なうということから「茗荷」というあだ名が付けられて、周利槃特のお墓から生えてきた植物が「茗荷」と呼ばれ、ここから茗荷を食べ過ぎると物覚えが悪くなるという俗説も生まれたようです。
このように「無解有信」の典型とされた周利槃特にまつわるエピソードについて、ご理解いただけたかと存じます。
 
さらに『法華題目鈔』の中で、日蓮聖人は舎利弗も摩訶迦葉も、お釈迦様のお弟子方はみんな「無解有信」の者だとされています。舎利弗といえば、法華経の方便品で、お釈迦様が「爾時世尊従三昧安祥而起告舎利弗」と、開口一番、教えを説かれた「智慧第一」といわれる仏弟子です。
摩訶迦葉は「頭陀第一」といわれてきわめて厳しい修行を実践した仏弟子です。
すなわち釈尊の十大弟子は、それぞれの修行にかけてはナンバーワンという意味で「○○第一」と称せられるのですが、こうした仏弟子が法華経において成仏の保証がなされたのは、智慧や修行の能力が優れていたからではないと言われるのです。
あくまでも「無解有信」の者であって、信心を基として仏道修行を完成することができたとされるのであります。
私どもは、知能指数が高いとか、いわゆるお勉強ができる人だけが優れた能力の持ち主だと考えてしまいますが、そうした固定観念にとらわれず、仏道修行において最も大切なのは「信心」であると日蓮聖人が強調されていることの意味について、もっと深く考える必要があるのではないでしょうか。
 
以上が住職の法話でした。
人間がこの世に生きていく上で、最も大切な心としての「信じる心」
自己を超えた存在によって支えられているという認識、仏の世界に帰依する心、謙虚に信じる心ということが何より大切ですね。
 
次回の妙恵寺御題目講は、秋のお彼岸会と七面大明神の大祭です。
9月19日(火)午後1時から行います。
どなた様でもご参加いただけますので、お気軽にメール、お電話等でお問い合わせください。
皆様のお越しを心よりお待ちしております。
 
合掌。
裕真
 
 

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