2月19日、御題目講「仏様ってどこにいるの?」

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こんにちは、副住職です。
先日、当山妙恵寺の2月の御題目講を奉行いたしました。
その際の住職の法話をまとめましたので、ご覧ください。

今月の聖語は『重須殿女房御返事』の中の一節です。
さて皆様、仏様ってどこにいるのだろう?って考えたことがありますか?
ここでクイズを一つ。
仏様の世界は、浄土とも言いますが、東の方、西の方、南の方、はたまた2、3か月前からよく話題になっている艮(うしとら)の方角か・・・。
皆様は、どの方角だと思いますか?
 
宗派によって考え方は違いますが、いちばん有名なのは阿弥陀様の浄土で、西方極楽世界と言われますから、西の方ですね。
これは浄土宗、浄土真宗の考え方で、西方十万億土の世界、太陽が沈む彼方に阿弥陀様がいらっしゃって、その浄土へ往生するというのが基本的な教えですね。
ですから、西だと思った方、正解です。
 
次に、東だと思った方もいましたね。
東の方には、薬師如来がいらっしゃるという浄瑠璃浄土がございます。
また、法華経の見宝塔品で出現する多宝如来の浄土は、東の方にあると説かれます。
ですから、東も正解なのです。
 
次に、南だと思った方。
南は無いだろうと思うかもしれませんが、有名な観音菩薩の浄土は南にあるといわれます。
補陀落(ふだらく)浄土といいまして、補陀落はポタラカという言葉からきています。チベット仏教の総本山はポタラ宮ですね。チベットのダライラマ法王は観音様の生まれ変わりと信じられているのです。
インドでは、南の海の彼方に補陀落浄土があるといわれます。
日本でも、熊野・那智では補陀落渡海といって、小型の木造船に行者が乗り込み、そのまま沖へ出て南方の補陀落浄土を目指すことが、平安時代から江戸時代まで行われていたそうです。この身のままで仏に成るんだという決意の表れですね。
そうした信仰が実際に日本にもあったわけです。
ですから、南も正解です。
 
最後に、艮と思われた方。
これは引っかけかと思われたかもしれませんが、お釈迦様が入滅されたのが霊鷲山から北東(艮)の方角であったとされます。日蓮聖人も身延山から見て北東の池上で亡くなられました。お葬式の引導文の中にも「艮の廊にて訪ねさせたまへ、必ず待ちたてまつるべく候」と読まれます。
そういった意味で、艮の方角に仏様がいるという捉え方もできますね。
ですから、艮も正解なのです。
 
このように、あらゆる方角に仏様はいらっしゃるのです。
法華経では、十方世界といいまして、東西南北の四方、その間の北東、南東、南西、北西の四維(四隅)、それらを合わせると四方八方で、360°の平面になります。
十方とは、八方に「上下」をプラスします。
平面に対して上にベクトルを立てると三次元の空間になります。
さらに法華経では、下方から、多宝塔や地涌の菩薩が出現します。
それは、いわば四次元の世界を表現したものです。
この十方世界には仏様が無数にいらっしゃると法華経では説かれるのです。
ですから、どの方角を選択肢に出しても、いずれも正解ということになりますね。
ところが、本日のお話の結論を最初に申し上げておきますと、仏様の世界は実は「ミナミ」にあるのです。
これはいったいどういうことなのか、後ほどわかりますので、頭の片隅におきながら、最後まで話をお聞きください。

さて、今月の聖語は『重須殿女房御返事』の中の一節
「地獄と仏とは、我等が五尺の身の内に候」
これは、弘安4年の正月に書かれたと伝えられておりますから、日蓮聖人が亡くなられる前の年ですね。
重須(おもんす)とは地名で、駿河国富士郡重須郷、現在の静岡県富士宮市北山に居住していた石川新兵衛宗忠の妻に与えられたお手紙です。
この方は日蓮聖人の最有力信徒の一人であった南条(上野)時光の姉か妹であったと考えられます。また夫の新兵衛は日蓮聖人から授戒されて道念日実と号しておりまして、その館が現在の北山本門寺となっています。
日蓮聖人の身延での晩年の生活を物心両面で支えたのが、この南条氏一族でした。
このお手紙には、冒頭に御供養の品に対する感謝の意が書き記され、さらに教えが説かれています。
その本文は、「そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、」と始まります。
地獄とか仏の世界とは、いったいどこにあるのかと言えば、
「或いは地の下と申す経もあり、」
地獄といえば、普通は地面の下にあると考えられています。
「或いは西方等と申す経も候。」
これは、先ほど申しましたように、阿弥陀仏は西方にいらっしゃるというのは、多くの人の常識になっておりますね。
「しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。」と説かれます。
すなわち、地獄というのは、何も地面の下だけに存在するのではなく、また仏の世界も、西方だけにあるんじゃないですよ、と。
五尺の身ということは、一尺が約30cmとすれば、1m50cmほどの人間の身体ですね。
一人ひとりの人間の体の中に、地獄も、仏もあるんですよ、という教えです。
それが、法華経の教えなのです。
 
以前、ブータンに行ったときに、方々にこの掛け軸が飾ってありましたので、今日は皆様にお見せしようと、片付かない部屋を整理して探し出してまいりました。

この図には、まず顔がありますね、夜摩(やま)天といって、欲望の世界を支配している存在ですが、閻魔大王と考えてもよいでしょう。この世界が6つに分かれていますね。
殺し合いをしている地獄界、自分の欲望のコントロールができない餓鬼界、分別が付かない動物の畜生界、争い事が絶えない修羅界、生老病死の四苦がある人間界、心地よい音色が響く天上界。
すなわち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天からなる「六道」の世界が輪廻することを表しています。
ブータンの人たちは、生まれ変わりを信じていて、人間が死んでも、必ずしも人間にはなれないとか、動物をいじめたりすると自分が動物に生まれ変わるという教えがあります。
そうした人間の行動を、すべて閻魔様が見ていると考えられているわけです。
六道輪廻というのは、死んでその世界に生まれ変わるということばかりでなく、現実の自分自身の心の状態を見つめるための教えでもあるのです。
 
地獄の世界というのは、実は自分の心の中にあるという自己省察が大切なのです。
たとえば、殺したいほど人を憎むのは、まさに地獄の心に陥っていて、自分で自分の首を絞めているのに気がつかない状態かもしれません。
欲望に支配されて、コントロールできずに貪って、周囲が見えない状態になるのが餓鬼の心でありましょう。
倫理・道徳をわきまえず、物事の分別がつかない状態が畜生の心でしょう。
自分の主張ばかりを無理やり通そうとして、争いが起こる、それは修羅の心ですね。
そして人間という存在は、バランス感覚をもちながらも、プラスとマイナスの心が常に揺れ動いていて、まさしく六道の世界が内在しているわけです。
六道の一番上は天上界で、一定の悦楽が得られる状態のことです。
上の図は、さまざまな精神状態を客観的に見せることによって、実はこれらが自分の中にあることに気づかせるためのものだと思います。
閻魔様は、そうした私たちの心の状態を常にご覧になっていること、また一人ひとりの心の中にそうした様々な世界が渦巻いていることを表しているのでしょう。
人間の精神状態を表現したのが本来の「六道輪廻」という考え方なのです。
仏教の教えの中でも様々な説き方がありますが、悪いことをしたら地獄に堕ちるとか、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる、というような道徳的な教えがあります。
道理の分からない子供には、ある意味で叩き込んで教育しなければならない。そういう意味で六道輪廻を視覚的に表現して教化の手段とすることも有効であるわけです。
 
六道というのは、実は迷いの世界でありまして、さらにその上にある、さとりに至る段階を含めて十界といいます。
六道の上には、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界という4つの世界があります。
仏教では修行を志した時に、最初は自分のさとりを求める、という「自利」の段階を経て、他者のため、誰かと一緒にという「利他」の精神に目覚めていくことが大切です。
例えていえば、声聞界・縁覚界というのは、自己満足的なさとりを求めてしまう段階です。
そして、菩薩というのが、自分のためではなく、他者のために汗と涙を流すことができる人、他者と共歓同苦できる人のことです。
自己満足に終わらずに、自らの役割に徹して地道に修行しながら、他者と共に歩んでいこうとするのが、菩薩の精神なのです。
他者への思いやりの気持ちをもって働きかけても、相手が自分勝手であったりすると、イライラしてしまいます。そこで諦めてしまうか、それも試練だと思って乗り越えていくことができれば、魂の成長に繋がります。
たとえ、相手に裏切り行為があったとしても、それを許容するぐらいの精神力を維持しなければ、本物の菩薩にはなれないのです。
さらにそれらの修行をすべてやり遂げることによって、仏の世界に至るわけです。
ですから、仏の世界に行くのは容易ではありませんね。
 
けれども日蓮聖人は、地獄も、仏も、私たちの身と心の中にあるのだと説かれているのです。
それを私たちがどう受けとめるかが問題です。
そんなことは自分にはできないよ、というのが本音かもしれませんね。
しかし、最初から諦めるのではなく、少しでも仏様の御心というものを常日頃から私たちが意識して、その教えに接していくことで、自然と身についてくるのではないでしょうか。
自分が仏に成ったとか、仏の世界と一体になったということは、けっして自分で勝手に判断することは許されません。
法華経の信仰世界に即して言えば、大いなる仏の慈悲心の一分をいただいて、仏様の手足となって活動していくこと。志をもって生きていくことによって、自分の力だけではない何か大きな力に支えられているという実感を得ることが必ず経験できるはずです。
そのとき、自分が何かをやっている、やってみせる、という自我意識を一旦捨ててみる。
そうすると、本当の意味での仏様の力をいただき、目に見えないパワーに支えられていたのだということに気づく瞬間がきっとあるはずです。
信仰の喜びというのは、そういうところなのかもしれません。
 
常に自分自身を反省する。
自分の中のマイナスの部分、すなわち悪なる部分、地獄、餓鬼、畜生の三悪道の世界は、自分ではなかなか気がつかないものです。自分では認めたくないという思いが先立つからかもしれません。
自己の内面に潜んでいる悪なる部分は、他者の姿を通して気づかされる場合があります。
法華経の教えというのは、少しぐらい勉強したり修行した程度でわかったような気になると、ついつい天狗になってしまいます。
法華経の信者を自認している人の中には、独善的になって慢心を起こしている人が多いように思われます。
自分の信仰だけが正しいと思い込むのは、まだまだ甘いのです。
さまざまな人間関係の中で、自分に対して厳しい人や辛くあたってくる人、嫌な思いを感じさせる人に出会うことがありますね。自分が嫌だと感じるのは、自分の中の嫌な面を相手に投影しているからかもしれません。
自分にとって苦手な人、自分に敵対する人、マイナスの作用を及ぼしてくる人、実はそういう人が、自分のマイナス面を教えてくれる、本当の導き手なのです。
「敵こそ我が師なり」の精神です。
この精神は法華経にしか説かれません。
敵こそ我が師なり。言うのは簡単ですが、実践するのは非常に難しいですね。
しかし、それを自分自身の座右の銘としながら、日々精進していく。
地道な努力を積み重ねることで、周囲の人から「あの人は仏様みたいな人だね」と言われることがあるかもしれません。
それは、今生での心構えと生き方次第ですね。
まあ、たとえ失敗しても、生まれ変わりを繰り返す中で、また気づき目覚めるチャンスが与えられるのが仏教の考え方の良いところかもしれません。
 
私たちの身体、心の中に地獄も仏もある。
これは自分の「心のもち方」次第で、地獄になったり仏になったりするという考え方と混同されがちですが、それは微妙に違うのではないかと私は思います。
自分の「心のもち方」を中心に据えると、自分の気分次第ということになってしまい、規範性を失うからです。
コロコロと変化する自分の心を中心とするのではなく、私どもが中心に据えなければならないのは、あくまでも法華経の教えです。
法華経を鏡として自分自身を照らし、自分の心を観察することが大切なのです。
この辺の問題は、いずれ改めてお話したいと思います。
 
さて、先ほど申しました、仏様は「ミナミ」にいらっしゃる、という意味がおわかりになりましたでしょうか?
「ミナミ」とは、「皆身」です。
皆さんの身にあるのです。
最初に申したように、地獄も仏も、六道も十界も、我等が五尺の身の内にあるのです。
仏様はどこにでもいらっしゃるということは、自分の心の中にも内在しているのです。
その仏様の存在をどのように現していくのか。それには常に自己を内省しながら、同時に仏様の御心に支えられているという自覚をもちつつ、慢心を起こさず、他者と共に謙虚に生きていくこと。
御題目を唱えるということは、そういう生き方を教えているんだということを感じていただければ、何よりでございます。
 
以上が住職の法話でした。
自分の心には、様々な心模様がありますね。
そういった心を常に穏やかすることを心がける。
そして、他者への思いやりをもった行動を実践していく。
それこそが菩薩行という修行なんですね。
私もまだまだ修行が足りないので、常に自己反省を心がけて精進していかなければ、と思いました。
 
来月の御題目講は、3月19日(日)14時から奉行いたします。
3月は、春のお彼岸でもございますので、皆様のお越しを心よりお待ちしております。
合掌
裕真。

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