お彼岸、心の修養・六波羅蜜「布施」

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春分が近くなり、少しずつ気温も暖かくなってまいりました。
冬の寒さにこわばらせていた身体も、だんだんとほぐれてまいりますと、外に出て活発に活動したくなります。
様々な方が活発に動き出し、色々な所へと出掛けられる前に、少し立ち止まってご自身の事・こころの事などに思いを巡らせてはみませんか?
 
世間では3月末をもって年度が終わり、4月からは新しい年度となります。
この時期、卒業・入学・就職など新しい年度へと気持ちを一区切りして、新たな環境へと気を引き締め直す時でもあります。
しかし、気を引き締めすぎると五月病になってしまうこともありますし、逆にだらだらとしていると暖かくて過ごしやすいこともあり、いつまでも気が引き締まらないということもあるでしょう。
ちょうど良い具合に、身体とこころを整えていくことがとても重要です。
 
お彼岸とは、彼岸会(ひがんえ)と言って、春分・秋分をお中日(おちゅうにち)としてその前後三日の七日間を春・秋の彼岸とし、この春・秋の彼岸のときに法会を行います。
 
なぜこの日なのかというと、春分・秋分の日は太陽が真東から昇り、真西に沈む、すなわち昼と夜の長さが等しくなります。この状態が、仏教の中道(ちゅうどう)<どちらにも片寄らない>という教えに合致しているとして、この日に法会を行います。
 
彼岸は梵語の波羅蜜多paramitaの訳で、到彼岸を意味します。煩悩・迷いの世界である此岸をはなれて悟りの境地である彼岸に到達するという意味があります。
彼岸と言っても、今生きているこの現実世界を遠く離れ、理想の別世界に往くということではありません、今生きているこの身このままに悟りの境地に到るように精進していくということです。
仏教ではその為に、六波羅蜜(ろくはらみつ)という彼岸へ到る為の六つの実践方法を説くのです。
 
清々しい気候のお彼岸の時期というのは、最も仏教・神仏に対する敬虔な心が起こりやすいと言われ、静かに物事を考え、自分の行動を反省し、良い具合に気を引き締め、身体とこころを整えていくのにとても適しています。
 
特にこのお彼岸の時期を仏道修行の期間と捉え、六つの修行徳目である六波羅蜜(ろくはらみつ)をお中日の前後三日間に配します。
 
以前、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)についてとても簡略に書かせていただきましたが、今回はそこからもう少し掘り下げていきたいと思います。
一度に書くのは難しいので、今回は「布施」について。
 
以前に、【布施(ふせ)…財や心を他の人に施す】と書きました、具体的にどのようなことか掘り下げてみたいと思います。
 
布施とは、ほどこすこと・恵むこと・与えること。「布」は心があまねくゆきわたること。「施」は人に恵むこと。と言われ、基本的に3つの方向(財施・法施・無畏施の三施)があります。
 
財施(ざいせ)とは、物質的に役立つものを他人に施すこと。衣服・飲食・田宅・珍宝など、僧侶に対して行う布施もこの財施となり、世間ではこの財施だけがお布施であると思われているかもしれません。災害の被災地や、貧困にあえぐ国や地域に金銭の喜捨や寄付を行うことも財施の布施行と言えます。
 
法施(ほうせ)とは、教えの施し。仏法を人に説いて聞かせること。教えを説くこと。仏の説いた経文を読誦することや、説法によって財施にむくいることも法施と解されます。
仏が法を説いて人々に施しをしていなかったならば、仏法も法施もありません。僧侶もこの脈々と流れる法施を行い、日々に六波羅蜜の布施行を修していることになります。
 
無畏施(むいせ)とは、おそれなき状態を与えること。一切衆生に恐怖の念をなからしめること。恐れを取り除いて安らぎを与えること。これには様々なものがあります、慈しみの眼差し、和やかな顔、優しい言葉使いも相手に安心感を与える無畏施です。
 
これらの「布施」は、行い難いものもあれば、一見するととても簡単に行えるように見えるものもあります。
仏教では、布施行をする際にとても重要な心構えがあることを説きます。
それは三者(物を与え、奉仕する主体。奉仕を受ける客体。奉仕の手段となる施物。)のそれぞれがいずれも執着なく、清らかであらねばならないと説くのです。
 
もしも、「おれが、私が、あの人にこのようなことをしてやったのだ」という思いを持つのであれば、それは本当に清らかな布施とはならないのです。
では、主体的に施しを行うのに、どのようなこころを持てば執着なく清らかになれるのかというと、それは「させていただいた」という思いを持つことです。
 
財を布施する時には、物惜しみを離れることをさせていただいたと観じることで、清らかな布施となります。
仏教では「縁起」を説き、縁によってすべての物事は起こります。
「してやった」という縁によっては、物惜しみの心はいつまでもなくならず、驕りや、見返りを求める心、そして見返りがなければ、怒りや恨みの念も起こりかねません。すべての人が物惜しみの心を持ち続ければ、限りあるものをうばい合い、人を本当に信じることも出来ずに、いつまでも諍いはなくなりません。
「させていただいた」という縁を持てば、感謝の心が起こり、ゆずり合いや互いに助け合う心が生れます。すべての人が感謝の心を持って、ゆずり合いや互いに助け合っていくのであれば、本当に人を信じることが出来、安心に包まれた素晴らしい世界になるのではないでしょうか。
 
もちろん我々には様々な心があり、そのような感謝の心を持ち続けることは難しいでしょう。ですので、清々しい気候のお彼岸の時期に、このような清々しい布施行をお勧めさせていただくのです。
 
本当に人を信じることが出来れば、人付き合いで煩わされることも、ひとりで悩んで疲れてしまうこともないのではないでしょうか。人は、他者と関わり合いながらでなければ生きていくことは出来ません。
 
赤ちゃんに見つめられる時、自然に笑顔になったり、優しい言葉使いになりますが、続けていると自分が笑顔を向けてあげているのか、笑顔にさせてもらっているのか、不思議な気持ちになることがあります。
 
「してやる」のではなく、「させていただく」。
「相手」からではなく、まずは「自分」から。

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