今回は蔦屋(喜多川)家墓碑について。
1、蔦屋家の墓碑は正法寺にかつてあったが、度重なる震災戦災にて失ってしまった
典拠 → 「台東区史沿革編」安政二年(1855年)の大地震の記述中、「正法寺潰れ」の記載あり。「浮世絵志(16)」(芸艸堂 1930年)に「関東大震災に倒れはしたが幸ひに破損は免れた」との記載あり。
東京大空襲が墓碑が失われた一番の要因なのかもしれません。
2、蔦屋家の墓碑はかつて本堂の裏手に2つ(蔦屋家歴代と蔦重)並んで建っていた。現在の墓碑は昔の形を史料を元に復刻したものである
典拠 → 「高潮(2)」吉川弘文館、1906年 に「浅草吉野町六番地の正法寺という毘沙門堂のある寺の本堂の右側から堂裏に廻ると、其處に喜多川氏歴代の墓碑と、重三郎の墓碑と並んで建ってある、歴代の墓碑の方は䑓石が三段になって居って其上に蓮座、夫れから碑石と見上げる様な立派な墓で、歴代十四名の法號が記してあるが、其上列五番目に幽玄院義山日盛信士とあるのが則ち柯理である。此碑は則ち柯理重三郎の全盛時代に建立して置いたもので、水盤には右に「通油町」中央には例の山形に蔦の紋所左に「蔦重」と刻んであって〜」
左の写真は「蔦重の墓」(高潮より)、右の写真は「蔦屋家歴代の墓」(鈴木俊幸著 蔦屋重三郎より)現在の墓碑の写真と見比べていただきたいと思います。
3、大田南畝の蔦重実母への碑文は蔦屋家歴代墓の左側面に、石川雅望の蔦屋重三郎への碑文は蔦重本人の墓に刻まれていた 現在は二つの碑文を一つにまとめて供養碑として建てている
典拠 →「高潮(2)」吉川弘文館、1906年 に「喜多川氏歴代の墓碑と、重三郎の墓碑と並んで建ってある、歴代の墓碑の方は〜、其左側面には太田蜀山人の選文がある。〜又其右方に石川雅望撰の柯理墓誌がある。」
これより石川雅望の蔦重への碑文は蔦重の墓に、大田南畝の蔦重実母への碑文は蔦屋家歴代の墓に刻まれていたと推測されます。(文の内容は上の写真の通り。私の拙訳ですので悪しからずお願いいたします、内容は人柄の伝わるとても良いものです。)
以上、蔦屋家の墓碑について、見つかった資料をもとにまとめてみました。次回は「蔦屋家遺骨と当山の萬霊塔における正法寺の行ってきた供養」について申し上げたいと思います。