妙円寺の歴史

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 妙円寺は、江戸時代初期(寛永4年・1627年。家光が将軍の頃です)に円成院日光上人が四谷の千日谷(現在の慶応病院の近くかと思われます)に草庵をむすんだのが始まりとされています。しかしこの頃の運営は大変に厳しく、元禄のころお堂は傷んで大破、その復旧もできない状況でした。

 小湊誕生寺の住職はこの状況を深く嘆き、元禄16年、日寛上人を住職(7代目)とし妙円寺の復興に当たらせました。日寛上人は再興に力を注ぎましたが、千日谷の土地は湿地で、しかも狭い借地であったため、困難も多かったようです。

 そんな折、檀家である隠田村の名主・又兵衛さんから土地の寄進を受けたのを機に、宝永3年(1706年)妙円寺は今の場所に移転しました。
 日寛上人は当地で本堂・庫裡・客殿などを相次いで建立するなど努力を重ねました。そこで、日光上人を開山(新しくお寺をつくった人の事)、日寛上人を中興開山としています。

 なお、加賀・前田利常の娘で、将軍家光の養女となり後に藝州・浅野家に入った「満姫」は、信仰篤く妙円寺を前田家及び浅野家の江戸祈願所と定めました。この由緒により、前田家の家紋である「梅鉢」が妙円寺の寺紋となっています。

 

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