喜雨を乞う~昭和30年 三草山祈雨儀式~

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1955年(昭和30)の干ばつは、町の主産業である農業に深刻なダメージを与えた。

ここに、管区の檀徒さんから預かった数枚の写真がある。撮影場所は、自坊のある能勢町(大阪府豊能郡)と兵庫県川辺郡猪名川町の府県境に位置する、標高563メートルの三草山の山頂である。昭和30年8月20日撮影というから、自坊のお施餓鬼法要の前日だ。当寺住職だった祖父と、やはり同町で寺を預かっていた大叔父の姿がある。各宗派の僧侶が、それぞれの僧服で一心に祈りを奉げている。大叔父は木剣を振っているようだ。
私は昭和37年の生まれなので、生まれる前の写真だが、物心がついてお祖父さんから聞いた覚えはあった。しかし、画像を目にしたのは今回が初めてだ。
 
日照りが続きで降雨が無い場合、千束の柴を山頂で焚く雨乞い神事が、三草山や大野山、天台山などで昭和の中頃まで盛んに行われていたという。
 
この時、農家にとって生死にかかわる局面に、11の地区から総勢300人を超える町民が結集した。午前4時、三草山山頂に向けて歩き出した一行は、現地で千束の柴を刈り積み上げた。なだらかな独立峰の三草山といえども、8月の酷暑の時期である。現地での作業が苛酷を極めたことは想像に難くない。宮司や僧侶の衣帯で、雨乞いの列を成す光景も見て取れる。差配者と呼ばれる司祭の長を先頭に、神官、琵琶湖の竹生島から火受けした神火、そして超宗派の僧侶たちの後に松明を手にした町民が続く。
 
地区毎に神職の祈願所である祭壇を設え、鐘や太鼓の音に合わせて、「雨よ下げ、八大龍王!」「一気に天を焼くのや!」と唱えながら千束柴の周りをお千度する。
そして高々と積み上げられた千束柴に点火されるのは、出発して12時間後の午後4時半。
 
私の書斎からは現在の三草山がよく見えるのだが、その様子はもはや想像するしかない。
この時の記録も残っており、俄かに黒雲が立ち込め、間もなく大雨となったと記されていた。空を焦がさんばかりに立ち昇る炎、濛々たる白煙が雲と一体化して、鉛直方向に膨張する積乱雲となるかのような光景だろうか。
 
「時により すぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」
(源実朝)
 
百人一首でもお馴染みの歌だが、八大龍王は水や雨に深く関係することから、古来より祈雨(きう)の神として各地に祀られ信仰を集めてきた。『法華経序品第一』には、「八龍王有り、難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和脩吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王等なり。各若干百千の眷属と倶なり」とあって、霊鷲山での釈尊の法華経説法の際、その会座に列なって教えを聞いていたことが記されている。また、日蓮聖人も曼荼羅本尊に龍神や龍神王、龍王、大龍王などと書き入れられている。
 
また、本宗で祈雨にまつわる話といえば、鎌倉極楽寺の開山で真言律宗の僧良観房忍性と日蓮聖人との間で祈雨を争ったことや、龍華樹院日像上人の弟子で、妙顕寺二祖大覚妙実上人が、1358年(延文三)祈雨の効験によって大僧正に任ぜられたことなどが有名である。
 
ちょっとしたことがきっかけで、このような貴重な資料が私の手元にある訳で、「瓢箪から駒」とでも譬えようか、窓からいつも眺める山でこのような神事・儀式が行われていたことに深い感慨を覚えた。実は、別なことで行き詰っていたのだが、この件を調べている内にそれがガス抜きになった。
「切っ掛け」とは、物事を始める弾みとなるものというが、新しいことを始めると同時に、いくら考えても詮無いことを止められた。きっかけ…まして些細な(ように思える)きっかけなら、それを生かすも殺すも自分次第だ。八方ふさがりと思っていても、結構そんなチャンスが転がっているのかも…
 
貴重な資料を提供して下さいましたT.Y.様、Y.Y.様、誠に有難うございました!拝

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