春のお彼岸法要が行われました

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3月20日、白蓮寺に於いて春季彼岸会法要が行われました。当日は心配された雨も降らず、良い天気となり大勢の方にご参拝いただきました。
都合が合わず参拝できなかった檀信徒の方もいらっしゃいましたので、法要での法話を記載させていただきます。
今日は「自灯明 法灯明」についてお話をさせていただきます。
この教えは釈迦が入滅される直前に阿難という弟子に対して説いた釈迦の最後の教えと言われております。この阿難はいつも釈迦に付き添って身の世話をしていた弟子でしたので、釈迦の入滅の際には悲しみのあまり、一人泣きじゃくっておりました。そんな阿難に対して、釈迦は「自らを灯に、法を灯にして生きなさい、と阿難に告げて大いなる涅槃に入られたと云われております。これを「自灯明、法灯明」といい、仏教ではとても有名な教えです。
 
しかし、私は長年、この教えに対して疑問を思っておりました。法灯明の法とは、お釈迦様の教え、所謂「仏法」ですから、仏法を拠所にして生きなさいというのは分かるのですが、釈迦は仏法の前に自分自身を灯にしないさいと言っております。私はこの意味をなかなか理解できないでおりました。なぜなら、私たち凡人は煩悩が多く、迷いだらけですので、そんな自分を指針にしたら、間違った道に進むのではないかと不安になってしまうからです。しかし、私も人生経験を重ねることで、ようやくこの釈迦が説いた自灯明の意味が分かるようになりました。自灯明とは、先ずあるがままの自分を受け入れて肯定しなさい、という意味だと理解できたのです。なぜなら、自分自身を受け入れられず否定している人が、他人の幸せを願い、全ての人に対して慈悲の心を持ちなさいと教える、釈迦の教え「法」を理解し実践することは出来ないからです。
 
世の中にはお金持ちの人もいれば、貧乏な人もいます。美人やイケメンもいれば、そうでない人。健康な人もいれば、重い病で苦しんでいる人もおります。しかし、お金持ちの方が必ずしも幸せではない場合が多くありますし、美人やイケメンが必ずしも幸せな人生を送っていない場合もあります。逆に世の中には経済的に困窮していても家族仲良く支えあって幸せに暮らしている家族もおりますし、重い病を抱えていたり、身体に障害がある方でも、前向きに幸せに暮らしている方がたくさんいます。この違いは何かと考えますと、私はその人自身が自分を受け入れ、肯定しているかどうかだと思うのです。あるがままの今の自分を肯定している人は、幸せな生き方ができ、逆にどんなに恵まれた環境にあっても、自分自身の置かれている立場を不満に思い、受け入れずに否定している人は不幸せな生き方になってしまうと思うのです。
 
例えば、マイケルジャクソンは誰もが認める世界的スーパースターですよね。歌もダンスも超一流で、誰もが羨むエンターテイナーとしての才能に溢れていました。私達は彼が黒人であろうと白人であろうと関係なく、彼の才能や魅力に惹かれたわけです。しかし、当の本人は、生まれもった黒人としての自分の顔を受け入れられずに整形を繰り返しておりました。最後は不可解な原因で若くして亡くなりましたが、彼はそういった意味では不幸であったのかもせれません。一方で盲目の歌手、スティ-ビーワンダーはどうでしょうか。彼は黒人であり目が見えませんが、ありのままの自分を受け入れて、ピアノの演奏と歌で多くの人に感動を与えております。楽しそうに歌う彼からは幸せなオーラが溢れております。
 
このように、ありのままの自分を受け入れ肯定することが、自灯明であると思うのです。これが出来て初めて次のステップである法灯明、つまり、仏法を理解し実践することが出来るのです。私達日蓮宗徒の信仰する法は法華経です。法華経は、釈迦が晩年に説いた教えと云われ、釈迦の集大成とも言える深い教えです。この法華経は、平等大慧と呼ばれるように、一番の特徴は誰もが平等に成仏できることを説いた教えです。この法華経の第20章には、ある男の話が出てきます。この男は、坊さんにも関わらず、経がろくに読めず、ほかの坊さんからは相手にされず、馬鹿にされておりました。しかし、この坊さんは、いつも欠かさずしていた修行がありました。それは、会う人会う人、全ての人に合掌して「私はあなたを敬います、なぜならあなたは必ず将来仏となられる人だからです」と言って、どんな人にも合掌し礼拝をしておりました。常に他人を軽んじないという態度から、常不軽とあだ名がつけられました。しかし、周りの人からは頭のおかしい坊主だと、逆に軽んじられ、石を投げられ、暴力をふるわれる始末です。ですが、常不軽は殴られそうになると、その場から逃げて、少し離れた所で、私はあなたを敬いますといって合掌し続けました。常不軽はこの合掌礼拝の修行を一生繰り返しました。釈迦は法華経の中で、この常不軽という男こそが自分の前世の姿であることをあかしました。
 
釈迦の前世の話は、全ての人に仏に成れる性質、仏性があることを認め、それを肯定し敬うことが、菩薩としての最上の修行であり、仏と成る道であることを教えております。この教えこそ、私たち日蓮宗徒が人生の指針とするべき「法灯明」であると思うのです。
 
しかしながら、先に話をしたように、あるがままの自分を受け入れ肯定するのは簡単ではありません。それよりももっと難しいのが他人を肯定することだと思います。みなさんも、ご近所さんや職場に苦手な方がいると思いますが、その人を肯定して敬うことはなかなか出来ないと思います。ましてや、一切衆生を受け入れて肯定するのは本当に大変なことだと思います。ですから、先ずは自分のご家族から実践してみてはいかがでしょうか。朝起きてお早うと言う時に合掌して礼拝してみて下さい。あるいは、親子喧嘩、夫婦喧嘩になってしまった時に、是非、常不軽を思い出して、合掌して礼拝をしてみてください。相手が余計ヒートアップして、殴られそうになったら常不軽のように、少し離れた所に逃げて合掌して相手を敬って下さい。この修行が続ければ皆さんも近い将来成道できると思います。
 
今日は、お釈迦様の最後の教えと言われる、自灯明、法灯明の教えを紹介させていただきました。先ず、自分自身を受け入れること。今の仕事、家族、病気などなど、あるがままの自分を受け入れて肯定すること。それが出来なければ、私たちは決して幸せな生き方はできません。そして、法灯明の実践として、法華経に説かれる常不軽菩薩の教えを紹介し、全ての人の仏性を認め肯定することが、最上の菩薩行であるという仏の教えを紹介しました。是非、皆さんもこの「自灯明、法灯明」の教えをいつも心に留めていただきたいて、これからも精進して頂きたいと存じます。

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