白蓮寺通信秋号を発送しました

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厳しい残暑が続きますが、空を見上げますと少しずつ秋に近づいていることを感じられます。
猛暑が続くのは嫌ですが、不思議と夏が終わりゆくのは悲しくもあります。人間はわがままな生き物だとつくづく思います。
さて、お盆も終わったばかりという感じですが、来月は秋のお彼岸を迎えます。昨日、秋のお彼岸のご案内をする「白蓮寺通信 秋号」を檀信徒の方へ発送いたしました
ことをご報告します。会報の一部を下に掲載させていただきます。

今月の法話 「いじめ問題について」
 教育の現場では、いじめの問題が後を絶ちません。まだ精神的にも成長段階である子供同士の中でいじめが起きてしまうのは、仕方がないことかもしれませんが、いじめられた生徒を守る立場の教育者達が問題を解決するどころか、ある学校では、いじめた生徒ではなく、いじめられた生徒に対して密かに退学を促し、またある学校では、明かにいじめが原因で自殺をした生徒の問題を学校側と教育委員会が組織的に隠ぺいしていたことがニュースとなり、それを聞いた時には本当に憤りを覚えました。
 私は学校教育に携わる者ではないので、あまり偉そうなことは申せませんが、一個人としての考えを述べさせていただきます。まず、いじめがあるのは子供の世界だけでなく、昔から「村八分」という言葉があるように大人の社会にもそれは存在します。そして、いじめが100あれば100通りの原因やそれを取り巻く間接的な要因、所謂仏教で言う「因縁」や「縁起」があります。それ故一概に解決策は提示できませんが、学校であっても社会であっても人が集まる所には、必ず人間関係の問題が生じます。そこで、大切となるのがどのような意識で人と関わり合いをもつかです。弱い者がより弱い者を叩くというのがいじめの構図であると私は考えます。詩人の相田みつを氏は「せとものとせとものがぶつかりっこすればわれてしまう。どちらかが、やわらかければ大丈夫。やわらかい心をもちましょう。」と結んでいます。
 瀬戸物とはぶつかれば簡単に割れてしまう「弱いもの」と理解すると、柔らかい心とは、割ることの出来ない「強いもの」と理解できると思うのです。要するに、同じ人間として対等な人権を持つものの間で、理不尽な扱いや、酷い仕打ちが一方的に行われる時は、これは「不当である」と声を上げること、また、その勇気が必要です。その強い心があれば、弱いものとぶつかりあって割れることはないのです。
 釈迦はスッタ二パーダという経典の中で、人が幸福に至る為の正しい道の1つに、相手を恐れず自由に話すことと教えております。この様に相手を恐れずに「間違っていることに対しては、これは間違いだ」と声をあげることが、人が幸福に生きてゆくための王道なのです。
 法華経如来寿量品で本仏は「私は常に人々の行いを知っていて、それぞれにあったふさわしい方法で教え導き、いつも成道させることを願っている」と説いています。自分の周りでおこる問題は、成道へ導く為に仏様から与えられた乗り越えるべき課題であるのかも知れません。
いじめをする側の人間は不幸な場合が多いものです。不幸な人や子供をなくすことが、いじめ問題の解決策の1つなのかも知れません。(康)
参考文献 本多静芳著 (法話情報大事典)
中村元著 (仏教のことば 生きる智慧) 
 
日蓮聖人のお言葉   <法華取要抄(ほっけしゅようしょう)>   
 
此(こ)の土(ど)の我等(われら)衆生(しゅじょう)は五(ご)百(ひゃく)塵(じん)点(てん)劫(こう)よりこのかた、教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)の愛子(あいし)なり。不孝(ふこう)の失(とが)によって今(いま)に覚知(かくち)せずといえども、他方(たほう)の衆生(しゅじょう)には似(に)るべからず。有縁(うえん)の仏(ほとけ)と結縁(けちえん)の衆生(しゅじょう)とは、たとえば天(てん)月(げつ)の清(せい)水(すい)に浮(う)かぶがごとし。
<現代語訳>
永遠の昔から地上の全ての人々は釈迦仏の愛子である。我々は不孝な子であったために、その親子の関係を悟れなかった。それは特別な関係である。月が静かな水面に映るように、仏陀は我々の静かな心の中に現れる。
(背景  1274年  日蓮聖人 52歳 身延にて 昭和定本812頁)
 
 

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