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七面山 妙恵寺

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妙恵寺お会式法要&法話「ピンチはチャンス」

こんにちは、副住職です。
去る10月19日、当山妙恵寺のお会式法要を有縁のお上人方を招いて奉行いたしました。
皆様と共に、日蓮聖人への報恩感謝の志を捧げるお会式になりました。
さて、今回のお会式の際の住職の法話をまとめましたので、是非ご覧ください。

 

今月の聖語:『諸経与法華経難易事』拝読
「仏法ようやく顚倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲(まが)れば影ななめなり。」(昭和定本1752頁)

 
本日は皆様、ようこそご参詣くださいました。宗祖日蓮大聖人ご入滅736遠忌を迎えまして、ご報恩の「御会式」法要を皆様とともに営んだわけでございます。
一口に736年と申しますが、それだけ長い間、日蓮聖人が唱えられたお題目を受け継ぐ人たちがいたということです。日蓮聖人のカリスマ性もありますが、法華経の教えの本質に触れて、生きる支えとした人々が数多く存在してきたわけです。
先ほど法要にご出仕いただいた当山副干与の木田上人からもお話がありましたように、辛い事、マイナスの出来事を経験しながら、それを乗り越えていくための教え、それが法華経・御題目の特徴です。
私どもはそれぞれの人生の中で、さまざまな困難なことに直面します。しかしそこでの経験には、無駄なことは一切ないのです。自らを振り返ってみて、もしかしたら消してしまいたい過去が、皆さんにはあるかもしれませんね(笑)。けれども、人生すべてに無駄は無しです。
困難なことに遭遇した時、そこから逃げ出したり、避けて通ろうとしたくなるものです。しかし、それを自分自身に与えられた課題として前向きに受けとめることが大切です。向上心をもって試練を克服しようとするとき、不思議な出会いがあったり、手助けしてくれる人が現れたりするのです。
そのように未来を信じて一歩踏み出す勇気を持とうとする人にとって、御題目の教えは心の支えとなり、生きる指針となるのであります。

 

さて、お会式の時はいつも『報恩抄』の一節を拝読して、その話をしておりますね。『報恩抄』は日蓮聖人が身延に入られて2年目の建治2年(55歳)、身延山でしたためられたご文章で、この昭和定本で50~60ページにもなる長編でございます。
日蓮聖人は道善房というお師匠様に導かれて清澄寺において16歳で出家されました。そして鎌倉をはじめ、京都・比叡山を中心に勉学と修行に励まれて、32歳で故郷に帰られます。
しかしながら日蓮聖人は、お師匠様の期待に応えるような道を歩まれず、一般的な倫理観からすれば、恩知らずになってしまったわけです。
そんな日蓮聖人が、身延において師匠の訃報に接し、なぜ師匠の思いを受け継ぐことなく、今まで法華経に身と心を捧げる人生を貫いてきたのか、その理由を切々と綴って、真(まこと)の報恩の道を示されたのが『報恩抄』であります。
日蓮聖人が「法華経の行者」として、数々の法難を受けながらも、それを乗り越えられたのは、単に日蓮聖人の自己主張や信念が強かったからではありません。私ども人間は、娑婆(しゃば)世界という現実の世の中において、さまざまな苦難に遭遇します。苦難を味わい、それを乗り越えようとする経験によってこそ、魂をより良く向上させるための道が与えられる、という教えが法華経の本質なのです。
仏教の教えはさまざまですが、一見、聞き心地のよい教えというのは、人間の願望を叶えてくれるような面が強調されます。この神様を拝めば、お金が儲かるとか、良縁に恵まれるとか、病気が治るとか、そうした御利益を期待する信仰というのが、私たちの中にはありますね。
本当の信仰に導かれるための初歩的な段階としては、それでも良いのですが、人間の欲望には限りがありませんから、一つ願いが叶うと、もう一つと、だんだんエスカレートするものです。そして自分の願いが叶わないとなると、こちらの仏様はダメだと勝手に判断して、あちらの神様に頼ったりする。
このように、ややもすれば人間が中心となって、神仏を人間に奉仕する存在としたり、隷属化させてしまいながら、私たちはそのことに気づいていない場合が多いのではないでしょうか。
自己の都合を優先したり、自分自身に判断の基準を置いて、仏様や神様を取捨選択することに対して、日蓮聖人は強く批判されました。日蓮聖人の批判は、いいとこ取りの信仰や、ご都合主義の信仰にとどまってしまうことに向けられているのです。
仏教で「末法」といわれるのは、自分本位の人間が多くなり、節操がなくなって秩序が乱れ、社会全体が疲弊してしまう時代のことです。人間の欲望が肥大化して、エゴの塊がぶつかり合うと、戦争になりますね。そういうことが頻繁に起きてしまう末法の時代のことを、教主釈尊は心配されているのです。
釈尊はそうした人間の愚かさを見抜いた上で、末法の時代にこそ、法華経の精神が必要となるであろうと、その担い手となる存在を募集されます。それは第11章「見宝塔品」の中で、釈尊入滅後の時代において、誰か法華経の精神を弘める者はいないか、と勧募されているのです。
ただし法華経の教えは奥が深いので、容易に理解することも信じることはできないと、釈尊は釘を刺されます。それでも誰かが使命感をもって、釈尊滅後に法華経の担い手となる覚悟をもつ人は、諸仏の面前で誓いの言葉を述べなさいと、三度にわたる要請がなされます。
いつも私どもが御題目の後に拝読する「此経難持」のお経文は、この三度の要請に続いて説かれるもので、釈尊滅後の未来の時代に法華経の精神を弘めることの困難さが強調されながらも、本物であれば守られるということが暗示されているのです。このことは以前にも申し上げましたね。
法華経が「難信難解」であると強調されるのは、私たちが望むことをそのままの形で叶えてくれるわけではないからです。困難な事態に直面しながらも、それを克服しようとする勇気をもって前に進もうとする時にこそ、法華経の教えの真実性が現れ出てくるのです。
そうした意味で「難信難解(信じることも理解することも困難)」であると、法華経では強調されるわけです。日蓮聖人はそこに教主釈尊の深い御心があることを洞察されて、法華経を末法の時代に弘めることを諸仏の面前で誓ったのは誰なのかと、経文を鏡としてご自分自身を照らし合わされたのです。
そして日蓮聖人は、釈尊滅後の末法の時代においてこそ、法華経の真髄を社会に機能させなければならないと決断され、「法華経の行者」としての生き方を追究し、経文に予言された法難・迫害を体験することによって、きわめて逆説的に法華経の真実性を証明されたのであります。
このように日蓮聖人がなぜ命がけで法華経と向き合い続けたのか、その理由が『報恩抄』には告白されており、なかでも御会式の法要では次の一節を拝読いたします。
「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。この功徳は伝教・天台にも超へ、龍樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳(のみ)。」(昭和定本1248~9頁)
すなわち、法華経の真髄を末法の日本国によみがえらせることができたのは、けっして日蓮聖人の智慧が優れているからではなく、時の必然に随ったまでのことであるとされます。
さらに『報恩抄』の末尾は、「この功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。」と結ばれているのであります。
 
ところで、今月の聖語は『法華経与諸経難易事』の一節ですが、その冒頭には、法華経は「難信難解」であるのに対し、法華経以外の諸経は「易信易解」であると説かれます。
すなわち、法華経の説かれる以前の諸経は、それぞれの機根(仏法を受け容れる能力)に応じた教えであるので、信じること・理解することが容易であるけれども、それは釈尊が仮に説かれた教え、すなわち方便の段階であるとされます。
いっぽう法華経は、教主釈尊の深い御心がストレートに説かれた教えであるため、信じること・理解することが困難であるけれども、そこに釈尊の真実が込められているとされるのです。
「諸経と法華経との難易」というのは、そうした意味なのです。釈尊が奥深い真理の世界に人々を導くための手段として、まずは受け入れやすい教えからはじめて、だんだんとステップアップさせながら、最終的にすべての人たちが共有すべきオールマイティーの教えを説かれたわけで、それが法華経なのです。
もし、いきなり法華経の本質を説いてしまうと、みんながチンプンカンプンで付いていけず、かえって早合点をしたり、誤解を生じてしまう恐れがあります。ですから方便の教えによるトレーニングが必要なのです。例えば座禅による精神統一や瞑想体験などは、心と魂を鍛えるためのトレーニングに当たります。
法華経がオールマイティーの教えとされるのは、真の「平等」の精神を説いているからだと言われます。私たちの現実世界のことを仏教では「差別(しゃべつ)」の世界といいます。人間はそれぞれの顔かたちが違いますし、能力にも差がありますので、それぞれに異なる個性や特徴が発揮されることで、社会は成り立っているはずです。
法華経の説く「平等」とは、多様な価値観を無理矢理に一つの色に染めることではありません。あえて分かりやすく申しますと、それは以前にもお話しした金子みすゞさんの詩「鈴と小鳥とそれから私、みんな違ってみんないい」の精神に通じるものです。
仏教の説く平等とは、みんなが同じでなければいけないということではありません。例えば小学校の運動会のかけっこで、順位をつけないというのがありましたが、あれはナンセンスですね。勉強の得意な子もいれば、足が速くて運動会のヒーローになる子もいる。それなのに、みんな同じだからといって、手をつないでゴールするというような、今はどうなのか知りませんが、一時そんなことがありましたね。それは悪平等というものです。
一生懸命に働く人も、いつも適当に怠けている人も、同じ仕事だから給料は同じというのでは、悪い意味の共産主義や、一昔前の親方日の丸的な国営企業のようで、真面目に努力しようとする意欲が失われて、一種の悪平等になりかねません。
しかしながら、法華経に説かれる平等の精神は、単なる理想論だという見方もあります。特に末法の時代に生きる人々は、仏道修行の能力である「機根」が劣っていて、魂を向上させるようなトレーニングには堪えられないというものです。
そこで、末法の衆生は「下機下根」であるから、現実世界での仏道修行を回避して、ひたすら阿弥陀仏による救いにあずかろうとする、浄土教信仰が鎌倉時代の初期に流行しました。
浄土教の立場では、「下機下根」の者が大多数を占める末法の世の中では、釈尊がそれにふさわしい教えを説かれているのだから、自分たちの能力に見合った教えをいただけば、それで十分なのだと考えます。どんなに低いレベルであっても、仏の教えに帰依(南無)する心が大切なのだと主張するわけです。
これがいわゆる浄土教の特徴で、自分たちは愚かであるいう、開き直りというか、もはや居直りですね。そうした低いレベルの自分たちのためにこそ、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べてくださっているのだから、その御心に素直になれば良いという発想です。
ですから、日本の浄土宗の開祖法然上人は、法華経は末法の時代に相応しないと判断して、「捨てても良い」と喝破したのです。法然上人の主著である『選択本願念仏集』には、「捨・閉・閣・抛」という文字をもって法華経をないがしろにしてしまったことを、日蓮聖人は『立正安国論』の中で強く批判されています。
自分たちの身の丈に合った教えしか受け容れられない、というのも確かでしょう。しかしそれでは、現実世界を支えている微妙なバランスが崩れて、社会が疲弊して機能しなくなることを日蓮聖人は危惧されたのです。
「仏法」は単なる個人レベルでの心持ち次第というような単純なものではなく、社会全体の調和を保つ働きをもつ、というのが日蓮聖人のお考えです。ですから日蓮聖人は、仏法を自分本位に受けとめたり、恣意的な解釈をすることに対して厳しく批判されたのです。
『立正安国論』において、正法に背くと人間の精神性が劣悪化し、同時に国土・環境も乱れて災難が続発すると、強く警告されたのは、このような事情によるわけであります。
諸経と法華経との難易を問題とされたのは、こうした「易きに流れる」傾向では社会全体が悪い方向に加速してしまうため、歯止めをかける必要があったからです。ですから日蓮聖人はそのために命をかけられたと、ご理解いただければよろしいかと存じます。
 
さて、冒頭に拝読しました今月の聖語について、改めて解説いたしましょう。
まず「仏法ようやく顚倒しければ世間も又濁乱せり。」の部分ですが、ここでは「仏法」と「世間」との関係性が説かれております。
仏法が顚倒するというのは、顚末の「顚」には、てっぺん、物の先端という意味がありますから、それが倒れるということは、逆さになる、ひっくり返るという意味になります。すなわち、仏法の秩序が逆転すると、現実世界に混乱が生じるという論理です。
仏法の秩序が逆さになるというのは、釈尊の教えに込められた真意を求めようとせずに、ただ自分たちに都合の良いこと、いわゆる御利益のみを頂戴しようとする状態を指しています。
釈尊の御心に随順するのではなく、自分本位に仏法のいいとこ取りをすることを、日蓮聖人は「謗法(ほうぼう)」とおっしゃいますが、本来は人間の精神性を根本から支えるはずの「仏法」を自分勝手に用いれば、その人の心が不安定になるばかりでなく、私たちが生きる現実社会の環境・国土が連鎖的に乱れるというのです。
このように仏法と世間とは切っても切れない関係にあるというのが、法華経の教えの重要な部分です。日蓮聖人が『立正安国論』で主張されたのは、まさしくこのことなのです。
『立正安国論』には、現実社会に「天変地夭・飢饉疫癘」という災難が続発しているのは、仏法の受容の仕方が自分本位のいいとこ取りで、「謗法」の罪に陥っているためであり、仏法の秩序を立て直さなければならない、という問題提起がなされたわけであります。
 
そして、今月の聖語の後半ですが、「仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲がれば影ななめなり。」とは、仏法と世間との相関関係について、たとえ話を用いて説明された部分になります。
私たちの体に光が当たると影が出来ますね。体が動けば影も動くという譬喩です。この場合、あくまでも仏法が主体で、世間はそれに付き従う影のようなものとされていることがポイントです。
日蓮聖人はここで何を言おうとしてされているかと言いますと、『立正安国論』の趣旨がわかりやすく説かれているのです。天災地変や飢饉疫病にみんな悩まされており、さらに災難が起きて止むことがない。このままでは戦争が起きるのも時間の問題であると。では、世の中の乱れを正すにはどうしたらよいのか?
「世間」の環境・国土が乱れているというのは、影の部分であって、その乱れの原因は「仏法」の本体が曲がっているからである。仏法が「体」で、世間が「影」ですから、影の部分だけを修正しようとしても無理な話です。仏法が曲がっている、すなわち仏法の秩序が乱れているから、世間(環境)が乱れてしまっている。「仏法」の秩序の立て直しをしなければ、環境の乱れは治まらない、「立正」による「安国」の実現とは、そういう論理なのです。
私たち人間が生きる上で、「仏法」はそれほど重要な意味をもっているのです。人間の側が仏法を自分勝手に取捨選択したり、ご都合主義的な信仰に安住してしまうと、仏法は正しく機能せず、いわば機能不全に陥るわけです。日蓮聖人は、なんとかしてその機能を回復させることが先決であるとお考えになり、仏法の秩序の立て直しのために不惜身命の覚悟をもって、法華経の精神を実践的にお弘めになったわけであります。
 
仏教の教えというのは、人間にとって都合の良い部分だけを利用しようとすると、とんでもない逆効果になる場合もあります。
法華経・御題目の教えというのは、私たちが日常生活の中でさまざまな苦難や挫折を経験する中においてこそ、その真実性が現れてくるものなのです。
御題目の教えに生きる私たちにとって、「ピンチはチャンス」です。
永遠の魂を成長させるためには、何度も試練を受けながら、それを一つ一つ乗り越えることに、宗教的な悦びを感じることがあるはずです。困難なことに直面した時、いま自分が試されているのだと思えるかどうか、そこがターニングポイントです。
法華経・御題目の教えをいただいているのだから、どんな試練にあっても大丈夫なんだと、挫折しても、もう一度立ち上がる勇気を与えてくれるのが、御題目に宿っている不思議な功徳なのです。その功徳をできるだけ多くの人たちと共有することによって、私たち自身の魂を向上させるとともに、社会・環境・国土をも浄化する働きを果たしていくんだということをご理解いただければと思います。
 
日蓮聖人の第736遠忌にちなみまして、『報恩抄』と今月の聖語とを合わせながらお話しさせていただきました。日蓮聖人の目指された世界とは何かということを、皆様それぞれが感じ取っていただければ幸いに存じます。

 
来月の妙恵寺御題目講は11月19日(日)14:00より奉行いたします。
どなた様でもご参加いただけます。
御祈祷を受けたい方、法話を聞きたい方などなど。
興味のございます方は、メール、お電話等でお問い合わせください。
皆様のお越しを心よりお待ちしております。
合掌
裕真。

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